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COFFEE BREAK
文化-Culture-
恋多き天才の足跡を追ってフランクフルトへ。
文豪ゲーテが、愛したコーヒー。
文学史上に煌々と輝く一等星、ゲーテはコーヒー通だった。彼の創造力とバイタリティを支えたのはどんなコーヒーだったのだろう?
この小説の初稿が書かれたのは1774年。コーヒーがヨーロッパ各地に広まったのは17世紀前半のことだから、100年ちょっとの間にこの飲み物が人々の暮らしの中にすんなりと浸透していたことがわかる。82年間の生涯に5万本のワインを飲んだといわれるゲーテはコーヒー好きとしても知られていた。30代後半に旅して強く感化されたイタリアではローマの〈カフェ・グレコ〉やヴェネチアの〈カフェ・フローリアン〉に日参し、コーヒーを楽しんだ。作家・詩人・法律家・政治家であると同時に科学者でもあったゲーテには、コーヒーにちなんだ〝科学的貢献〟の逸話も残る。コーヒーから有機化合物カフェインを分離することに初めて成功したのはドイツ人のフリードリープ・ルンゲで1819年のことだが、この時ルンゲに「コーヒーに含まれる、頭を冴えさせる物質の研究をしてはどうか」と勧めたのはゲーテだったという。
この街で、この家で、ゲーテはコーヒーを知った。
ゲーテの生家を満たした、コーヒーの香りを夢想する。
フランクフルトはゲーテが生まれ、16歳までと20代の半分ほどを過ごした街である。初恋をしたのも、汎神論と出会ったのも、『ウェルテル』を発表したのも、最初の婚約(後に解消)をしたのもフランクフルトでのこと。コーヒーの魅力に目覚めたのもこの街でのことだったに違いない。
旧オペラ座の前からはゲーテ通りが延び、ゲーテ像の立つゲーテプラッツに続いている。さらに少し南に歩けばゲーテハウス(生家)とゲーテ博物館に至る。母方の祖父が市長まで務めた名士だったこともあり、生家は4階建ての威風堂々とした建物であった。1階のダイニングルームにはポットとカップ&ソーサーを納めたカップボードがある。陶器は近郊のヘキストで焼かれたもの。調理場の棚には鉄製のハンドルの付いた古めかしいコーヒーミルが...。コーヒーの香りがこの館を満たしていた様がありありと想像できる。ゲーテが10歳の頃、フランスの軍隊がこの家に寄宿するという事態が起こった。このとき、軍政長官トラン伯爵が雇って絵を描かせていた画家にコーヒーを運ぶ役割を仰せつかったゲーテ少年が、わざと離れた場所にコーヒーを置いて画家の仕事を中断させるといういたずらをしたことが自伝『詩と真実』に述べられている。
ゲーテの通った店で、コーヒーが想起させた格言。
恋多きゲーテの創作を、手助けしたコーヒー。
ゲーテハウスを出て、通りの向かい側にあるカフェ〈カリン〉に入った。ランチを終えた人々がコーヒーを飲んでいる。最近の流行りはコーヒー、ミルク、ミルクフォームが三つの層になったラテ・マキアート。
コーヒーを挟んで語り合う男女を見ていてゲーテが恋多き男であったことを思い出した。お相手の数は、世にその名が知られている女性だけでも10人以上。ゲーテにとって神そのものである自然と女性はインスピレーションの源泉だった。66歳の時にゲーテが25歳年下のヴィレマー夫人に贈った「銀杏の葉」など多くの恋の詩歌が残る。彼がそれらを書く際にはコーヒーの力を借りたことだろう。
もし生きていたら今年268歳になるゲーテが飲んだのと同じコーヒーを今に求めることは不可能に近い。しかし、文豪と同じ場所でコーヒーを飲むことはできる。レーマー広場近くのレストラン〈ツム・シェトルヒ・アム・ドーム〉は1704年創業。ゲーテはこの店の常連だった。木漏れ日の躍るテラス席に陣取り、ゲーテが好んだというグリューネゾーネ(7種のハーブを使った緑のソース)を添えた子牛肉とアスパラガスを食べた。食後のコーヒーの香りの中、ゲーテの格言の一節がふと胸に湧いた。〈なぜいつも遠くへばかりいこうとするのか。見よ、よきものは身近にあるのを。ただ幸福のつかみかたを学べばよいのだ〉