COFFEE BREAK

MUSIC

文化-Culture-

2011.09.30

バッハの才能があふれる、父と娘のコーヒー讃歌。

「千のキスより甘く、マスカットのワインより柔らかなコーヒーなしじゃ、とてもやっていけない」と今様な娘が言うと、頑固な父親は「コーヒーをやめること。諦めないなら、結婚もさせない」。果たして、娘はコーヒーを飲み続けることができるか――。父娘のユーモラスなやり取りを、娘が頓智的にコーヒーを飲む権利を獲得するまで、まるでミュージカルのように活き活きと描く。バッハによる通称〝コーヒー・カンタータ〟だ。

 バッハが活躍した17世紀のドイツでは、トルコから伝わったばかりのコーヒーの人気が高まっていた。バッハは流行りのコーヒー店で演奏会を行うこともあり、自身もコーヒー好きであった。詩を書いたのは、当時活躍していた詩人ピカンダーである。

 なぜコーヒー・カンタータは、コーヒーの香りのようにわれわれを虜にして離さないのか。それはバッハならではの聴く人を魅了する技能技巧が、さまざまに散りばめられているからだ。バッハの楽譜を分析していこう。

言うことを聞かない娘への父の嘆きを巧みに表現。

 まず第1曲のレチタティーヴォ(叙唱)。テノールの語り手が「静かに聴いてください。娘が行なった親への仕打ちを」と口上。初めて聴いた人は、何て変な音楽と思うかもしれない。セリフがはめ込まれた音符には、旋律がない。それはなぜかというと、本編に期待を持たせるためだ。

 第2曲のレチタティーヴォはト長調が最後の最後でニ長調に転調。ニ長調の響きをしっかりと鳴らし、父親シュレンドリアン(旧弊者という意。バス)のニ長調のアリアにスムーズに繋ぐ。見事な導入である。娘に軽んじられ、頑固なのだけれど、決して威厳があるわけではない父親の独白。【楽譜①②参照】

「子供は厄介ものだ。心底の悩みだ。娘のリースヒェンときたら毎日毎日、言っているが、ぜんぜんだめ」。Hat man nicht mit seinen Kindern(子供をもつものではない)【A】まで8分音符で確実に、1音節に1音があてがわれているが、次は山形進行の細かな16分音符【C】にHunderttausend Hudelei(十万もの悩みだ)という長い語句を、無理やり押し込み、しかも三番目に繰り返す時には飛び込み的な下降【D】になる。大胆な折れ線音形で、娘がちっとも言うことを聞いてくれない、イライラを巧みに表現している。

 ここで、音楽の勢いをさらに増す働きをするのが8分休符【B】。一瞬、ウゥッと音の進行が遮られ前進が止められるが、音の進行エネルギーはその分、蓄積され、凝縮される。この8分休符で父親の思いが代弁された。

マスカットのワインより、コーヒーは素敵な飲み物!

 コーヒー・カンタータの白眉は、第4曲の娘のリースヒェンのアリア。父親が娘を嘆くアリアから一変して、秘めやかで艶やかな、コーヒー謳歌だ。フラウトトラベルソ(バロック時代の横笛)の哀愁を含んだ速いパッセージを従え、「コーヒーはなんて素敵」とのんびり可憐に歌う。

 このアリアの音楽的なポイントは「ロ短調」だ。第2曲で、対立している父親のアリアがニ長調なので、娘にはその平行短調のロ短調をあてがう絶妙さ。両者は基調が同一なので、明るさ、暗さという感情の違いはあるが、雰囲気的に似たところがある。コーヒーに反対している父も、コーヒー大好きの娘も、しょせんは家族だという関係が音で表現できるのである。

「コーヒーってなんておいしいの!千のキスより甘く」というスウィートな歌詞なら、本来は長調の明るいトーンであるところ、バッハの慧眼は、この歌詞を短調で描いたことだ。「マスカットのワインより柔らかな舌触り」という官能的なテイストを伝えるには、やはり短調で、しかも、横笛の早いマイナーなパッセージに乗った、コケティッシュな感情の発露が必要だった。池辺晋一郎先生の表現を借りると、ロ短調には「繊細さ、淡い哀しさ、艶やかだがひそやかなロマンティシズム」の感情がある。

 第6曲の父のアリア「強情な娘は」、第8曲の娘のアリア「今日のうちにも」も名曲。父の脅しに負け、コーヒーを断念すると見せた娘だが、第9曲では「コーヒーを飲むことを許さない男は、家には入れない」と頓智的に父をうっちゃる。

 コーヒーの芳しい香りがあちこちから立ち上っているような、ヒューマンな旋律とうきうきするリズム、そして艶っぽい和声にあふれた楽譜であった。

『J.S.バッハ:コーヒー・カンタータ/農民カンタータ』
標準価格¥1,200 品番POCL-4780 【1986年録音】
クリストファー・ホグウッド指揮(ハープシコード)
エンシェント室内管弦楽団/エマ・カークビー(ソプラノ)
ロジャーズ・カヴィ=クランプ(テノール)/デイヴィッド・トーマス(バス)
かつてはエリー・アメリング/コレギウム・アウレウム合奏団の盤が定番だったが、今は、ピリオド(当時の時代)奏法の大家、ホグウッド盤が最高だ。時代背景を尊重しヴィヴィッドで軽快、生命感が愉しい。娘のエマ・カークビーの気品、可憐さは本盤のハイライト。父親のデイヴィッド・トーマスの歌唱からは愛娘への愛も感じ取れる。

文・麻倉怜士(津田塾大学講師/音楽学) / イラスト・龍神貴之
更新日:2011/09/30

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