COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2012.06.27

エッセイ*茂木健一郎【初めてのコーヒーと最良のドーパミン】

茂木健一郎【脳科学者】

 私のコーヒーとの出合いは、幼稚園の時になる。コーヒー牛乳が大好きで、いつも飲みたいな、と思っていた。その頃、幼稚園のお弁当の時に、牛乳が出た。毎朝、小さな袋の中に牛乳代の小銭を入れていく。今でも鮮明に覚えているが、白い袋が普通の牛乳用で、赤い袋がコーヒー牛乳用だった。

 幼稚園に着くと、みんなで箱の中に名前を書いた袋を入れていく。赤や白の袋が入り交じって、きれいな風景。私は、毎日でも赤い袋を持っていきたかったが、母は「毎日コーヒー牛乳ばかりじゃダメ!」と白い袋を持たせた。時々しか赤い袋を持たせてくれず、それがうらめしかった。

 そんなわけで、私の中でコーヒーに対するあこがれが充満していったが、それがようやく満たされたのが小学校5年生の時だった。母のふるさと、北九州市の小倉で、親戚のおばさんに本物のコーヒーをおごってもらったのである。喫茶店に行って、「何でも好きなものを頼んでいい」と言うから、メニューに載っているコーヒーの中でもいちばん高かった「ブルーマウンテン」にする、と言った。何でも、その当時でも800円だった記憶があるから、かなり高価だったに違いない。

 「ブルーマウンテン」というのが何なのか、当時はあまりわかってはいなかったが、とにかく世界のどこかでとれる、高級なコーヒー豆だ、というくらいの認識はあったのだろう。どんなに素晴らしい味や香りがあるのかと、ぜひとも体験してみたくてたまらなかったのである。

 ダメ、と言われるかと思ったが、意外にもおばさんは「いいよ」と言った。「その代わり、ブルーマウンテンを飲むんだから、ミルクや砂糖を入れてはダメよ」と言われた。これには、少し身構えた。何しろ、幼稚園のコーヒー牛乳から始まった私のコーヒー好き。まだ、ブラック・コーヒーを飲んだことがなかったのである。
 しかし、ここで「ブラックはいやだ」と言ったら、せっかくのブルーマウンテンを味わうチャンスを失う。「わかった。ブラックで飲む」と言って、覚悟を決めた。

 お店の人が、もっともらしく、豆をひいている。さすがに、プロの所作は違う。やがて、上からお湯をかけて、コーヒーが入った。カップが運ばれてくる前から、香ばしさが漂ってきた。口に含むと、ほろ苦い、しかし心地よい味がした。そして、何よりも驚いたのは、ほろ苦さの底から、そこはかとない甘みが伝わってきたことだった。

 これが、本物のコーヒーの味! 初めての、ブルーマウンテン! 確かに苦かったが、それよりも美味しさと感激の方が大きかった。夢中になって飲み終えたとき、大人への階段を一つ登ったような気がした。

 人間の脳の中には、「ドーパミン」という報酬物質があり、中脳から前頭葉に向かってその経路が走っている。ドーパミンは、うれしいことがあると放出される。その結果、ドーパミンが放出される前にやっていた行動の回路が強化されるという「強化学習」が起こる。

 コーヒーを飲むと、ドーパミンが出る。その結果、コーヒーを飲むという行動が強化される。そのようにして、嗜好品であるコーヒーが、生活の中で欠かせない必需品となるのである。

 ドーパミンは、コーヒーを飲み慣れた人でも出る。しかし、何と言っても生涯で最初のコーヒーを飲んだ時に、最大のドーパミンが出る。脳にとって、一番うれしいのは「初めて」のこと。遠い昔、小学生の私が、初めて喫茶店で本格的なブルーマウンテンを飲んだ。あの時に、私の生涯の中でも最良のドーパミンが出ていたに違いない。

 以来、ずっとコーヒーを愛好し続けているが、一向に飽きそうもない。朝は、必ずコーヒーを飲むことから始める。それから、おもむろにコンピュータに向かって仕事を始める。朝の一杯のコーヒーが、生活のリズムをつくってくれる。つまり、私にとって、コーヒーが生み出すドーパミンが、一日の調子を整えてくれるのである。

 これまで飲んできたコーヒーの想い出はいろいろある。中でも忘れがたいのは、英国のケンブリッジ大学に留学していた時に「ティールーム」で飲んでいたコーヒーである。英国というと紅茶、というイメージがあったから最初はミルクティーを頼んでいた。しかし、お世話になったバーロー教授は、気付くとコーヒーばかり飲んでいる。そこで、私も途中からコーヒーとビスケットになった。

 チャールズ・ダーウィンのひ孫であるバーロー教授と、コーヒーを飲みながら科学の話をする。あの時間は、この上なく幸せだった。そのように考えると、コーヒーの想い出には、必ず他の人との心の交流があるように思う。

 幼稚園のコーヒー牛乳。おばさんにおごってもらったブルーマウンテン。そして、バーロー教授とケンブリッジ大学で飲んだコーヒー。いつもそこには人の心の温かさがあった。一杯のコーヒーが、人と人とをつないでくれる。

PROFILE
茂木健一郎(脳科学者)
1962年生まれ。脳科学者。東京大学理学部、法学部卒業後、 同大大学院物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、英国ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所勤務。専門は脳科学、認知科学。
Photo: Joi ito
茂木健一郎

文・茂木健一郎 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2012/06/27

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