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COFFEE BREAK
文化-Culture-
傷ついた人生を癒す、神保町の珈琲店。
「コーヒーを味わうようなひととき」というテーマで作られた映画がある。台湾の名監督ホウ・シャオシェンが2004年に発表した『珈琲時光』だ。
タイトルにも「珈琲」と付いているだけに、今は閉店してしまった東京西神田の名店「エリカ」など実在する珈琲店が印象的に登場するものの、特にコーヒーが物語上で重要な役割を果たすわけではない。日々の中でふとコーヒーを飲んでひと息つく――。そんな〝感覚〟としてのコーヒーを、映画という表現に移し変えているのである。
「珈琲店」と呼びたくなる、レトロな趣の店ばかり。
監督こそ台湾の人だが、主な舞台は東京で、主人公は下町でひとり暮らしをしているフリーライターの陽子。恋人未満の友人・肇が営む神保町の古書店を訪ねたり、取材で東京のあちこちに足を踏み入れたり、お盆に群馬の実家に帰省したり......。一般的に〝映画的〟とされる派手なイベントや事件とは無縁のさりげない日常が、美しい光を捉えた映像美で綴られていく。
『珈琲時光』でまず感じるのは、画面内での「時間」の流れ方が従来の映画とまったく違うこと。例えば冒頭のシーン。陽子がアパートで洗濯物を干しながら、肇からかかってきた電話を取り、訪問してきた大家さんに旅行の土産物を渡す。この一連の流れのナチュラルさはただごとではない。余計な演出は極力そぎ落とされ、われわれが普段感じているのと同じ速度の「時間」が完全に保たれているのだ。
自然体な演技も素晴らしい。陽子役で主演したのは一青窈。本業は歌手で、この映画が女優初体験だったそうだが、力むことのない佇まいやひょいと口をついて出たようなセリフ回しは脚本があることをまったく感じさせない。肇役の浅野忠信、両親役の小林稔侍、余貴美子ら本職の俳優陣もまたしかり。おかげで観客は、彼らの生活のひとコマに入り込んで、その場に立ち会っているような錯覚にとらわれてしまう。
では『珈琲時光』がありふれた日常だけを描いた「何も起きない映画」かというと、そうではない。実は陽子は台湾にいる男性との子を妊娠しており、シングルマザーになると決意している。それを唐突に知らされた両親や肇は動揺を隠せないのだが、不器用な彼らはうまく言葉や態度に表わすことができない。そんな心の揺れや想いが映像の〝行間〟からにじみ出て、淡々としつつも確かなドラマが伝わってくるのだ。
そして静かにエモーションがうねる中で絶妙な休息地点になっているのが、劇中で陽子が頻繁に立ち寄る珈琲店の数々。陽子の好みか監督の好みかはわからないが、先述の「エリカ」をはじめ「カフェ」よりも「珈琲店」と呼ぶのがふさわしいレトロな趣の店ばかりで、ホッとする安心感と同時にほろ苦い郷愁を感じさせてくれる。
気になる古書を漁っては、珈琲店で読書三昧。
『珈琲時光』でも重要なロケ地になっている神保町は世界最大級の書店街として知られる界隈だが、味のある珈琲店のメッカでもある。そんな街並みそのものを主人公に据えた映画が『森崎書店の日々』だ。
OLの貴子は、交際して一年半になる恋人から突然「俺、結婚するから」と告げられてしまう。実は男には貴子とは別に本命の彼女がいて、自分はただの遊びの相手だったのだ。ショックで泣き暮らす貴子に、神保町で古書店を営む叔父のサトルから電話がかかってくる。本屋の二階が空いているから、店番がてら住んでみてはどうかと言うのだ。貴子は特に断る気力もなく、神保町のど真ん中で暮らすことになる。
失意のどん底をただただ寝て過ごしていた貴子だったが、サトルから一冊の本に値段を付けて欲しいと頼まれたことをきっかけに、本の虫へと変貌を遂げる。周りは見渡す限りの本の山。いつしか貴子の興味は神保町の街全体に広がり、気になる古書を漁っては近所の珈琲店で読書三昧。そんな穏やかなモラトリアム生活は、やがて貴子の深く傷ついた心を癒し、次の一歩へと踏み出すための活力となっていくのだ。
こちらも主演女優がいい。貴子役の菊池亜希子は主にモデルとして活躍してきたが、彼女が放つ瑞々しい空気は淡い色合いの映像にあつらえたようだ。貴子を見守る叔父のサトルを演じた内藤剛志や、貴子行き付けの珈琲店の店員に扮した田中麗奈らもこの映画が醸し出す〝優しさ〟にひと役買っている。
濁流のような人生、一度立ち止まってみるのも悪くない。辛いときこそ無理をして踏ん張るのではなく、自分を一旦休ませてリセット。そんなときに最適な避難場所になってくれるのが、日常と共にある居心地のいい珈琲店なのだろう。一杯のコーヒーが与えてくれるささやかなひとときの大切さを、改めて教えてくれる2本の映画である。
最後に余談になるが、台北にはホウ・シャオシェン監督自身がプロデュースした「珈琲時光」という名のカフェが存在する。古い洋館を改装した施設の中にあり、都会のオアシスのような店なので、台湾を訪ねる際には立ち寄ってみてはいかがだろうか。
DVD発売中 ¥4,935(税込)
発売・販売元:松竹
ⓒ2003 松竹 朝日新聞社 住友商事 衛星劇場 IMAGICA
名監督・小津安二郎の生誕100周年を記念して、台湾からホウ・シャオシェン監督を迎えて製作された日本映画。撮影の名手リー・ピンビンが、現代の東京のありふれた景色を詩情豊かに捉えている。
ⓒ2010千代田区/「森崎書店の日々」製作委員会
DVD未発売
第3回ちよだ文学賞大賞に輝いた八木沢里志の同名小説を、短編映画で注目されていた日向朝子が映画化。原作の文庫本には、主人公・貴子の叔父サトルが失踪していた妻の桃子と再会する続編『桃子さんの帰還』も収録されている。