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COFFEE BREAK
文化-Culture-
一杯のコーヒーに、名探偵の美学が宿る。
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」
私立探偵フィリップ・マーロウのこのセリフに聞きおぼえのある人は多いだろう。
フィリップ・マーロウが誕生したのは、1939年。米国の小説家レイモンド・チャンドラーが発表した長編小説『大いなる眠り』の主人公として登場し、注目を集めた。チャンドラーは1958年までに、この私立探偵を主人公とした長編小説を7作書き上げ、世界中でファンを獲得。米文学におけるハードボイルド小説の地位を確かなものとした。
ロサンジェルスのダウンタウンにオフィスを構えるフィリップ・マーロウは、必ずしも成功者とはいえない。経済的に満たされてはいない孤独な男だ。これほどまでに読者を魅了し続ける理由は、独自の美学を貫く姿にあるだろう。立身出世に一切の興味を示さず、自分の人生を自由に采配し、確固とした価値観をもつ。
コーヒーをいれる手順は、何があっても乱れない。
そんな彼の人生に不可欠なのは、コーヒー、酒、チェス、そして女。6作目にあたるこの作品では、とりわけコーヒーが私立探偵の日常に欠かせないアイテムだ。チャンドラーは、コーヒーをマーロウの美学を表す小道具として見事に使いこなす。
マーロウが朝起きて最初にするのは、コーヒーをいれること。これまで2度ほど泥酔していたところを助けてやったテリー・レノックスが朝5時に彼の自宅を訪問したときも、彼はまずコーヒーをいれるためキッチンに向かった。
本書では、マーロウがパーコレーターを使ってコーヒーをいれる様子が描写されている。あたかもタフな男の条件が、美味しいコーヒーをいれられることだとでもいうように。マーロウは、自身の行為をこう説明する。
〈こんな細かい作業に何故いちいちこだわるのか? 張り詰めた空気の中では、どんな些細なものごとも演技性を持ち、大事な意味を示す動きとなるからだ〉
コーヒーをいれるという行為は、マーロウにとっては一種の儀式だ。決めた手順を繰り返すことで、心は落ち着きを取り戻す。冷静なマーロウにも、そんな時間が必要なのだ。
このとき、テリーは拳銃を手にしていた。彼が面倒に巻き込まれていることは明らかで、しかもマーロウに助けを求めている。もし彼を助けたなら、マーロウ自身も厄介ごとに巻き込まれるだろう。それでもマーロウは手を差しのばさずにはいられない。
意外なのは、マーロウがコーヒーを注いだカップに、角砂糖2個とクリームを少し入れるところ。じつは甘党だというのもこの男の意外な魅力なのかもしれない。
マーロウは、妻殺しの容疑が降りかかるテリーの逃走を手助けし、そのせいで警察に連行されてしまう。厳しい取り調べを受けていたが、あっけなく解放されたのは、テリーが逃走先で自殺したからだ。自宅に戻ったマーロウはひとり静かにコーヒーを飲む。
その知らせを追うように、マーロウのもとにテリーからの手紙が届いた。死の目前にしたためたものだろう。手紙は、「事件のことも僕のことも忘れてほしい」と結ばれていた。ただしその前に、「今度コーヒーを作るときに僕のぶんを一杯カップに注いで、バーボンをちょっぴり加えてくれ」とある。早朝にテリーがマーロウの家を訪れたとき、マーロウがしたことだ。
手紙を読み終えたマーロウはカップにコーヒーを注ぎ、バーボンを入れ、彼が座ったテーブルに置いた。
マーロウの魅力は、この優しさだろう。タフでクールだが、血の通った人間で、ときに感傷的になることもある。ただし、コーヒーが冷める頃には、心も鎮まっていた。コーヒーを捨て、カップを洗い、片づけるところも描写されている。
テリー・レノックスの死後、マーロウのもとを訪れたのは、流行作家ロジャー・ウェイドの妻アイリーンだった。彼は、美しい訪問客にコーヒーを勧める。新たにもちかけられた依頼は、流行作家の行方を探し、家に連れ戻すこと。これまでマーロウが扱ってきた事件とはいささか趣を異にする依頼だったが、マーロウは引き受けた。この依頼は、やがてテリー・レノックスの妻の殺害事件に繋がっていく。マーロウは、入り組んだ人間関係をゆっくりと解きほぐす。
村上春樹の新訳で、マーロウの魅力が際立つ。
原書『THE LONG GOODBYE』は、日本では清水俊二の翻訳により『長いお別れ』というタイトルで1958年に刊行された。本書はその新訳版だ。今後も長く読み継がれていくべき名作として、2000年代に入り早川書房が小説家であり、翻訳家としても活躍する村上春樹に新訳を依頼。高校時代からチャンドラー作品を愛読していたという村上は、その依頼を快諾した。
「チャンドラーくらい訳していて楽しい作家はいない」と語る村上は、残るチャンドラー作品も次々と翻訳に取り組んだ。村上がていねいに日本語に置き換えた新訳は、どれも骨太で、洗練されたマーロウの流儀を過不足なく表現している。
冒頭のセリフは7作目『プレイバック』の1シーンで、生島治郎の訳がベースだ。村上は、より原書に忠実に訳しているので、気になる方は新訳版を手にとってみてはいかがだろう。
レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳
ハヤカワ文庫 ¥1,132(税込)
私立探偵フィリップ・マーロウがテリー・レノックスと知り合ったのは単なる偶然だった。高級レストランで泥酔した彼を見捨てることもできたのに、自宅に連れ帰り介抱した。その後テリーが、妻の殺人容疑をかけられ逃走を企てたとき、頼りにしたのはマーロウだった。次にマーロウに持ち込まれた依頼は、流行作家の行方を探してほしい、というもの。2つの事件は、やがて複雑に絡み合う。