COFFEE BREAK

BOOK

文化-Culture-

2016.12.15

コーヒーの湯気が導く、不思議な時間旅行。

Illustration by takayuki ryujin

 もしも過去に戻れるとしたら、いつに戻るか。何をしたいか。もしも未来に行けるとしたら、何が知りたいか。今のところ、時間旅行は、はてしない空想の旅だ。憧れの人への告白、転職や起業。もしあのとき、決断していたら? 
 過去への旅の動機になるのは、後悔という感情だ。ほんの少し勇気が足りなくて思いとどまってしまった何かを、実行に移したい。実現したところで、今の自分は変わらないかもしれない。それでもいい。たいていの後悔は、納得するきっかけを求めているにすぎないのだ。

過去への滞在時間は、コーヒーが冷めるまで。

 本書は、そんな時間旅行を描いた物語。舞台となるのは、「フニクリフニクラ」という名の喫茶店だ。オープンはなんと明治7年。一般的には、日本初の喫茶店の誕生は、明治21年といわれているが、それよりも14年も早い。そして場所も店の造りも、ずっと変わっていないという。
 この店には、不思議な都市伝説があった。ある席に座れば、望む時間に移動できるというのだ。
 ルールは5つ。

① 会えるのは、喫茶店を訪れたことのある人だけ。
② 過去に戻っても、現実は変わらない。
③ 過去に戻れる席が決まっている。先客が席を立った時だけ座れる。
④ 過去に戻っても席から離れることはできない。
⑤ 過去に戻れるのは、コーヒーをカップに注いでから、そのコーヒーが冷めるまでの間だけ。

 絶妙なのは、5番目だ。カップに注いだコーヒーが冷めるまでの時間とは、どれくらいなのか。
 たいていの客は、厳密な時間を把握しなくとも感覚的になんとなくわかるだろう。おしゃべりや読書など、何かに夢中になっているときは、あっという間だが、コーヒーを味わって飲むときには、実にゆったりと流れていく。長いとも短いともいえない時間だ。
 しかし、コーヒーを注ぐ側にとっては、責任重大。コーヒーが「美味しい」と感じるのは、60℃が限界と言われている。提供時、だいたい80℃前後あるコーヒーが60℃になるまでの時間は、10分もない。カップの形や室温も影響するが、決定打は余熱だ。コーヒーを注ぐ前に、カップに熱湯を注いで温めておけば、冷めるまでの時間は大いに延びる。予熱しないカップなら7分、予熱したカップなら9分というデータもある。
 ちなみにこの店のコーヒーは、モカ。店主である時田流のこだわりだ。そしていれ方は3通り。流は、ハンドドリップかサイフォン、ウエイトレスの時田数は、コーヒーメーカーを使う。値段は、誰がいれても同じだ。手間を考えれば腑に落ちない気もするが、流がいつも店にいるわけではないから、経営的には、それがベストなのだろう。

4人の女性たちは、後悔をどう乗り越えるのか。

 そして、この店を訪れた4人の女性たちが時間の旅に出る。
 1人目は、大手IT会社に勤務する清川二美子。バリバリのキャリアウーマンで、ファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようなプロポーション抜群の美人だ。彼女が戻りたいのは、1週間前。アメリカへと旅立つ恋人に「行かないで」と言えなかったことを後悔している。過去に戻っても、現実は変わらない。素直に「行かないで」と言ったところで、男がアメリカ行きをやめるわけではないのだ。
 それでも彼女は、過去への旅を希望する。恋人への想いをしっかりと言葉にして伝えたいからだ。果たして、旅は、どんな満足を彼女にもたらすのか。

 2人目は、喫茶店の常連客高竹だ。彼女の夫も週に2、3回ここにやってくる。しかし2人は、まるで赤の他人のよう。なぜなら、夫は若年性アルツハイマーにかかっているから。彼の記憶の中で、妻という存在は、どんどん薄くなっている。セカンドバッグに入っている手紙を、渡し忘れたことは覚えているのに、目の前にいる高竹に渡すつもりの手紙であったことは忘れている。
 流の妻計は、高竹に過去に戻って手紙を受け取ることを提案。そうしたところで、現実は変わらないとしても意味はあるはず。過去に戻った高竹は、夫とどんな言葉をかわすのか。

 過去へ戻った人たちは、それぞれ自分の大切な人に会う。4人の女性たちの後悔が溶けていく様子が静かに胸を打つ。
 本書は発売後わずか半年で、なんと20万部を突破したベストセラー。著者の小説デビュー作で、新人作家の文学賞受賞作でもない作品の部数としては破格だ。
 セールスに火がついたのは、東日本大震災の被災地だったという。大切な人との別れを経験した人たちが、登場人物に自身を重ねることで、救いを得たのかもしれない。心の中で、過去へと旅をし、大切な人に自分の想いを伝えることができた。そして、不甲斐ないと感じていた自分を許せるようになったのかもしれない。

 味わい深い喫茶店の描写も物語を盛り上げる。入口の扉には、カランコロンと鳴るカウベルが取り付けられ、自然木の梁のある天井にはシーリングファンが回る。大きな柱時計が3つもあるのに、エアコンもBGMもなし。そして会計は、重々しいキャッシュレジスター。店もまた過去への時間旅行をしているかのようだ。

川口俊和著『コーヒーが冷めないうちに』
サンマーク出版 ¥1,404(税込)

レトロな喫茶店「フニクリフニクラ」には、不思議な噂があった。ある席に座ると、そこに座っている時間だけ、自分の望む時間に移動できるというのだ。しかしそこには面倒なルールが存在するため、希望する者はほとんどいない。時間旅行を経験するのは4人の女性。果たして彼女たちは、誰に会い、どんな言葉を交わすのか。全国で大ヒット中の小説。続編が来年2月に発売予定。

文 今泉愛子
更新日:2016/12/15

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