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COFFEE BREAK
文化-Culture-
50年前のインテリたちを夢中にした〝コーヒー道〟。
作者の獅子文六を懐かしく思うか、「誰、それ?」と思うかは、読者の年齢によるところが大きいだろう。作家は明治生まれ。パリに3年間留学した後、30代半ばで作家としてデビュー。新聞や雑誌で連載小説を次々と発表し、流行作家としての地位を確立する。『コーヒーと恋愛』(原題は『可否道』)は、1962年から翌年にかけて読売新聞で連載された長編小説。
それがいまなぜ復刊したのか。手がけたのは30代の若手編集者で、ロックバンドのサニーデイ・サービスが、96年に発表したアルバム『東京』収録の「コーヒーと恋愛」から本作を知り、古びない魅力に感激して企画したとか。もちろん解説はボーカルの曽我部恵一に依頼。小説から楽曲が生まれた経緯を明かしている。さらに表紙も『東京』のアルバムジャケットにコーヒーカップを加えたものに決定。コーヒーと恋愛の妙味を味わえる佳作が、新鮮味を伴って堂々と甦った。
〝コーヒー道〟提唱の奇人、あるいは無造作な名手か。
主人公の坂井モエ子は、43歳で職業は女優。名脇役と評され、毎夜のようにテレビに登場するから知名度もピカイチ。幸か不幸か美人とはいいがたく、ファンは圧倒的に女性が多い。彼女には、演技以外にもうひとつ特技がある。コーヒーの名手なのだ。彼女がいれたコーヒーを高く評価する人物として登場するのが日本可否会の会長・菅貫一だ。
可否とは、すなわちコーヒーのこと。珈琲という当て字は、当時すでに定着していたが、明治時代にオープンした日本初のコーヒー店「可否茶館」が使った当て字を採用したのは、コーヒーの味の可否を語り合うという会の趣旨を示すため。当時は、インスタントコーヒーが幅をきかせはじめていた。レギュラーコーヒー愛好家たちの中には、敵視する者も多かったのだろう。さしずめ菅は急先鋒だ。
豆の鑑別から、煎り方といれ方の研究、そして道具の蒐集にまで凝り、自分のいれるコーヒーが最高だと信じるナルシストぶりを、作家はユーモアたっぷりに「コーヒー狂という狂人が、最初に経験する症状」と書く。ゆくゆくは茶道のように、コーヒー道を提唱したいと考え虎視眈々と機会をうかがう様子は奇人めいている。いっぽう名手と呼ばれるモエ子は、豆にも道具にもこだわらない。いれ方も〈ほんとに無造作〉らしい。この対比もなかなかに興味深い。
当時のコーヒーを取り巻く状況も生き生きと伝わってくる。インテリたちがこぞって飲んでいたが、〈コーヒーをただ飲むというよりも、むつかしい顔をして味わう連中が多い。東京の名あるコーヒー専門店のカウンターには、そんな顔ばかり並んでいる〉と皮肉る。まるで現在の有名ラーメン店のようだ。
何事にも凝る国民性のおかげで〈コーヒー通やコーヒー・マニヤの数は、(外国よりも)日本の方が多いのである。従って、コーヒーのいれ方や味も、進歩が著しく、最高のウマさは論ぜずとして、水準の味をいうのだったら、東京は欧米の大都会に、断じてヒケをとらない〉と書く。これは、フランス留学経験があり、グルメ小説や食エッセイを数多く残した食道楽の作家らしい了見ではないだろうか。日本のコーヒーが当時すでに、これほどの水準だったというのも誇らしい。
脇役女優と年下ヒモ男の、甘くて酸っぱい恋の行方。
では、もうひとつの「恋愛」は? モエ子は8歳年下の塔ノ本勉(ベンちゃん)と同居している。ベンちゃんはかつてモエ子も所属していた劇団新潮の舞台装置家で、事実上モエ子の収入で暮らすヒモだ。コーヒー片手に熱中した演劇談義の末の同居だが、演劇とコーヒー、ベンちゃんがどちらにのめりこんでいたかは想像におまかせしよう。
ベンちゃんは、ある朝モエ子のいれたコーヒーをまずいと断じる。芋の焦げたような臭いと味がするというのだ! いつも通りにいれたはずなのにと戸惑うモエ子に、丹野アンナのことを考えていたのかと問い詰める。アンナはベンちゃんが最近急速に距離を縮めている劇団新潮の若い研究生だ。その噂がモエ子の心を揺さぶった結果が、芋の焦げたような臭いと味につながったというわけだ。モエ子のコーヒーの味を決めるのは、いれ方よりもいれる時の心の状態なのかもしれない。ベンちゃんは部屋を出ていくのか、コーヒーが愛情をつなぎ止めるのか。はたまたモエ子は、自身の恋愛の可否をどう判断するのか──。
ところで、可否の問題はベンちゃん自身も抱えている。新劇を愛するあまり、テレビドラマを毛嫌いするのだ。テレビ女優のモエ子に養われていることを棚に上げ、価値を一向に認めないかたくなさは可愛くもあり、可笑しくもある。じつは獅子文六は、昭和の演劇界を牽引した文学座の創立者でもある。演出など演劇関係の仕事は、もっぱら本名の岩田豊雄で通した。この小説の執筆中に文学座ではある騒動が起きる。当時中心メンバーだった、芥川比呂志や岸田今日子らが脱退したのだ。残された杉村春子は大変な剣幕で怒ったという。獅子はこの分裂騒動の頃はすでに劇団運営から手を引いていたが、ベンちゃんが所属する劇団新潮の葛藤のリアルな描写は、自身の経験も反映されているに違いない。
菅が熱望した〝コーヒー道〟は現在も確立されてはいないが、難しい顔をせずに誰もがあらゆるシーンでコーヒーを楽しめるようになった現在の状況を、作家はきっと喜んでいるはずだ。
ちくま文庫 ¥924(税込)
コーヒーの名手で人気女優の坂井モエ子は、ともに暮らす8歳年下のベンちゃんが若い劇団員に接近していると知り、いても立ってもいられない。そこで、自身が所属する日本可否会の会長・菅貫一に相談するが−−−。コーヒーの蘊蓄を語る菅、舞台装置家で新劇を信奉するベンちゃん、たくましく生きるモエ子。ユーモア小説の大家の熟練した技が堪能できる長編小説だ。