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COFFEE BREAK
文化-Culture-
ポルトガル領アソーレス諸島へ。 絶海の島で育まれる、ハートフル・コーヒー。
ポルトガル領アソーレス諸島へ。
絶海の島で育まれる、ハートフル・コーヒー。
ヨーロッパ最小のコーヒー農園を探し求めて旅に出た。大西洋の真ん中で出会ったのは、大量生産品とは対極の、滋味溢れるコーヒーだった。
大西洋の真ん中に浮かぶ島に知る人ぞ知る小さなコーヒー農園があると聞いた。群島の名はアソーレス諸島というらしい。その地名をパソコンで検索することから旅は始まった。
3月、ポルトで小型機に乗り換え、まずは諸島内最大の島、サンミゲル島に向かった。2時間半ほどで機窓からセルリアンブルーの海に浮かぶ緑の島影が見えた。シナモン色の屋根を載せた家々が主要都市ポンタ・デルガダの町並みだ。ポルトガル領アソーレス諸島はリスボンの西約1200㎞の大西洋上にあり、大小9つの火山島から成る。紀元前のカルタゴ人の遺跡も見つかっているが(この発見により、この諸島こそは伝説の大陸アトランティスの残滓ではないかと話題に)、現在の諸島の成り立ちにつながる歴史の起点となると、ポルトガル人のディエゴ・デ・シルベスによって「発見」された1427年ということになる。
プロペラ機を乗り継ぎ、風貌の異なる島々を巡る。
サンミゲル島は芋虫のような形をしている。面積は奄美大島と同じくらいだ。レンタカーを借りて、噂のコーヒー農園を探しに出かけた。〝緑の島〟というニックネームが示す通り、島は針葉樹と放牧地の緑で溢れていた。道端で目立ったのはアロエと紫陽花。紫陽花は観賞用に持ち込まれたものが爆発的に繁殖し、今では観光資源になっている。島の北部に茶のプランテーションがあることはわかったが、コーヒー農園は残念ながらこの島にはなかった。
翌日、プロペラ機で、テルセイラ島を経由してピコ島に向かった。テルセイラ島で乗り継ぎ時間が2時間あったので、タクシーをチャーターして、駆け足で島を巡った。この島は人間の脳を横から見たような形をしていて面積は、種子島くらい。見所は何と言っても1534年に建設された都市、アングラ・ド・エロイズモだ。〝エロイズモ(英雄主義)〟という言葉には、侵略者への抵抗の歴史が滲む。ヨーロッパと新大陸をつなぐ航海と貿易の要港として栄えたこの街がコーヒーをも扱っていたことは間違いないのだが、あいにく求めている農園はないようだった。
遭難しそうになりながら、噂のコーヒー農園へ。
オタマジャクシのような形をしたピコ島(面積はテルセイラ島よりやや大きい)は、ピコ山が火山活動によって海底から押し上げた島だ。この山の標高2351mはポルトガル全土でも最高標高である。黒々として聳えるピコ山を見上げつつドライブした。真っ黒い火山岩に覆われた景観は他の島々とは異なり一種異様だ。この島ではワインが生産されている。岩だらけの地面に他所から取り寄せた土を入れてブドウを育て、ワインを醸した酔狂な人がいたのだ。ピコのワインはかつてロシア皇帝にも愛されたという。
「コーヒー農園の話なら、聞いたことがある」
マデレナという街の海辺に奇妙な形の建物を見つけ、訪ねてみた。「セラ・バー」というレストラン・バーで、建物は建築誌の「年間最優秀建築」にも選ばれたという。沈む夕日を眺める席に陣取り、コーヒーを注文した。島のコーヒーではなかったが、絶景の中で啜るコーヒーは格別だった。
「コーヒー農園の話なら、聞いたことがある。お隣のサンジョルジェ島にあるはず」。そう教えてくれたのはこの店のマネージャーだった。幻にさえ思えていたコーヒー農園は実在する!
翌朝、埠頭からフェリーボートに乗り込んだ。小雨に煙るピコ山を右手に見ながらボートは進んだ。随分と遠くに来た気がしていた。ピコ島を外敵から守るようにして横たわるサンジョルジェ島は短剣のような形をしている。剣の長さは54㎞、幅は最も広いところで約7㎞。港に着くと、真っ直ぐにレンタカー屋を目指した。その後の下調べでコーヒー農園はカフェを併設していることがわかった。「カフェ・ヌネシュ」の名を告げると、レンタカー屋の女性が大雑把な位置を教えてくれた。オンボロの小型車に乗り込み、スマホの地図アプリに目的地を入力して、急な坂道を走り出した。
海を見下ろす断崖に沿った道をクネクネと走り、途中濃霧の中で地図アプリの偽情報に騙されて(目的地だと言われた場所は人里離れた荒地だった)悪態をつくなどあった後、ようやく海辺の狭隘な土地にしがみつくようにして開けたファジャ・ドス・ヴィメシュ村にたどり着いた。人口70人の村に教会が3つもある、そういう土地だ。
「カフェ・ヌネシュ」はすぐに見つかった。サッカーゲームとアイスクリームのケースが置かれた質素な装い。壁には夥しい数のドル紙幣が貼られている。カウンター奥の棚には蒸留酒のボトルが並んでいる。エスプレッソマシーンの前に表情の硬い初老の男性が立っていた。「コーヒーを飲むのかい?」
この男性こそはコーヒー園の主人であり、このカフェの経営者、マヌエル・ヌネシュさんであった。実はとても柔和で親しみやすい人なのだ。最初は日本からの珍客に戸惑っていたらしい。まずは一杯いただくとしよう。ヌネシュさんがマシーンでいれてくれたエスプレッソは芳ばしく、舌に滑らかで、甘く、厚みのある味がした。
織物を買いにくる、お客さんにコーヒーを。
ポルトガル語しか話せないヌネシュさんに代わって娘のディナさんが英語で話してくれたところによると、この島にコーヒーの樹がもたらされたのがいつなのか、正確にはわからない。ヌネシュさんの祖父の時代にはすでに古い樹があったというから最近の話でないのは確かだ。おそらくは18世紀後半のことではないか。1757年に大きな地震があり、多くの島民がブラジルに移民した。その一部が後に島に戻ってきたが、彼らの中にコーヒーの種子か苗を持ち帰った者がいたのでは?
現在島内でコーヒーを栽培している家はヌネシュ家を含めて4軒。販売をしているのはヌネシュ家のみであるという。農園には約400本の樹があり、生豆の収量は年間400㎏ほど。島には害虫がいないので、栽培は無農薬で行なっているという。元々はヌネシュさんも他の栽培者と同様に自家消費のみだったのだ。が、妻のマリア=アルジラさんが織っている、島の工芸品である織物を求めてやってくる人々にコーヒーを振る舞ううちに評判となった。いっそ商売にしようと、カフェを開業したのは1977年のことだった。
ヌネシュさんは農園の世話、収穫、乾燥、選別、焙煎、抽出、接客と全て1人でこなしている。焙煎機が見当たらないが?と尋ねると、ディナさんが母屋から大きな鋳鉄製のフライパンを取ってきて見せてくれた。すっかり打ち解けて柔和な表情になったヌネシュさんに、もう一杯コーヒーをお願いすることにした。
島を後にするとき、港に虹が架かった。夢の後のような気分だった。