COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2018.04.18

エッセイ*諏訪哲史【コーヒーという生き方】

 コーヒーの味は、子供のころから好きです。好きだったのですが、僕がまだ子供だったせいで、あまり自由には飲めませんでした。
 刺激が強いから小っちゃな子はコーヒーを飲んじゃダメ、などと、なんの迷信なのか思い込みなのか、とにかくそういわれていた小学生時代。しかたなしに、僕はコーヒー味のチューインガムや、あとは、そう、あの壜に入ったコーヒー牛乳を飲んで我慢していました。
 でも、子供にも飲むのを許された、そんな甘ったるい薄茶色の牛乳にかすかに含まれる、あのなんともいえない苦味、香ばしさを、子供なりに舌でぴちゃぴちゃと吟味し、うーむ、これが大人というドライで複雑な世界の深奥なのかもしれぬなあ、と、若年寄みたいに律儀に独り合点しつつも、なおひそかに大人の味覚に憧れたものでした。
 僕は名古屋生まれの、いまも名古屋に住んでいる作家です。名古屋という街は、市街地はむろん、場末や市のはずれに至るまで、おそらく町内ごとに少なくとも一軒や二軒は喫茶店がありそうな、コーヒー好きの土地柄です。
 僕の祖父母もコーヒーが大好きでした。毎朝二人で近所の喫茶店に通っていました。
 祖父の財布には常に二十三枚つづりのコーヒー・チケットが、店預かりにされず、きちんと折りたたまれてしまわれていました。それを祖母と毎日二枚ずつ、いそいそと少し嬉しそうな顔で切り離しては、午前中いっぱい、毎日同じ顔ぶれの馴染み客らと煙草を吸い、コーヒーを飲んで過ごしていました。
 ケチな十一枚つづりのチケットじゃなく、わしらのは豪勢な二十三枚だでな、というわずかばかりの矜持をたずさえて、馴染みの老人客たちはみな、煙草でもうもうとけぶる喫茶店のなか、とりとめもない長話をし、ほんのたまに店へ一緒に付いていった僕の眼には、そこはもはや現世ではなく、文字どおり五里霧中の、朦朧としたあの世のように見えたものでした。
 祖父の恩給やら年金やら、なにもかもが全部、月に二、三回ずつ購入する二十三枚つづりのコーヒー・チケットに姿を変え、なくなるんじゃないかなあ、そう僕は子供だてらの老婆心でもって、祖父母のふところを案じたものでした。
 概して大人というものは、いや、それ以上に老人というものは、コーヒーが好きです。
 やはり子供のころ、テレビのロードショーで観た名画『老人と海』で、老人役のスペンサー・トレイシーは、僕の記憶が確かならばですが、少年が毎朝カフェから銅のポットに入れて届けにくるわずかなコーヒーだけを口にし、細々と漁をして暮らしているようでした。朝のシーン、弱った身体をベッドから起こし、少年の注いだ熱いコーヒーを一口飲んで、「ああ。ありがとうな。おかげで今日も元気に過ごせるよ」みたいなことをいっていたのです。僕はびっくりして、「おじいさん、そりゃ無茶だよ、ご飯も食べなきゃ倒れちゃうよ!」とブラウン管の画面をたたいて老人に教えたい気持ちでした。現に、老人はその日いつものように一人で漁に出、たまたま針にかかってきたとてつもない大物のために、そのまま何日も海の上で、その「でかぶつ」とたたかうことになったのです。
 コーヒー・チケットにしろ『老人と海』にしろ、無知だった子供時代、あんなに僕にやきもきと心配をさせ不審がらせた「大人とコーヒーの特別な関係」というもの、その謎を、四十八歳になった今の僕は、こう考えてみたいのです。すなわち、「コーヒーとは、どんなに腹をくちくする食い物を差し置いてでも、大人として、生き方として、まずは喉に流し込んでおかねばならぬ儀式・典礼の神酒のような、特別な飲み物なのである」と。そして、それさえ口にすれば、たとえその日空腹で力尽き命を落としても悔いることはないというほどの気高いものなのだ、と。
 僕の祖父は最晩年、臨終の床でも、かすれ声で、こおひい、こおひい、とコーヒーを所望しました。僕たちは医師に内緒で、病人用の透明な「楽飲み」のなかでインスタント・コーヒーをつくり、少し冷ましてから吸い口を祖父に含ませました。茶褐色の温かい液体が、老いて衰えた祖父の口のなかへ流れてゆき、祖父はそれをゆっくり嚥下したあと、痩せた胸を波打たせながら、感無量といった表情で瞑目し、はあー、と深い息をつくのでした。
 僕が去年出した短編集『岩塩の女王』(新潮社)に収録された「ある平衡」という短編は、二つの掌編から成っているのですが、その一つは「珈琲豆」というタイトルです。煎りたての珈琲豆のつよい香りに心みだされ、夢とうつつが悩ましくも交叉する小説です。
 コーヒーの味も香りも、今やこうして現実の大人になった僕にとっては、もう憧れでなく、人生の苦味、そのままならなさと対峙し続けるストイックな根気、そんな寡黙な「生き方」であるように思われてならないのです。

PROFILE
諏訪哲史(すわ・てつし)
作家。1969年名古屋市生まれ。國學院大学文学部哲学科卒業。2007年小説『アサッテの人』で群像新人文学賞・芥川賞を受賞。長編『りすん』『ロンバルディア遠景』、文学批評集『紋章と時間』などの著書がある。
諏訪哲史

文・諏訪哲史 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2018/04/18

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