COFFEE BREAK

文化

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2014.06.27

コーヒー歴史トリビア・クイズ 〈パリジャンの心を捉えたコーヒー編〉

謎めいているからおもしろい!コーヒー歴史トリビア・クイズ
〈パリジャンの心を捉えたコーヒー編〉

 いまや世界中の人々に愛されているコーヒー。ドラマに満ちたその歴史には多くの謎が残されている。クイズ形式のコーヒー歴史トリビア、第5回は「おしゃれなパリジャンを夢中にさせたコーヒーの魅力」がテーマです。
Question1

 トルコのスルタン・モハメッド4世からルイ14世の宮廷に遣わされた大使が催したコーヒー・パーティでコーヒーが振る舞われた際に行われたユニークな方法とは?

a 豆のままお皿に載せて出した
b カップからソーサーに移してコーヒーを出した
c ガラス製のグラスに入れてコーヒーを出した

Answer1 b カップからソーサーに移してコーヒーを出した

 アイザック・ディズレイリの著した『文芸奇談』に次のような描写がある。〈(給仕たちが)熱くて濃く香り豊かなる最高品質のモカ・コーヒーを薄手磁器製の卵型碗より金製や銀製の皿に注ぎたり。皿の下に敷かれたる絹のナプキンには刺繍施せられ金糸の縁どりあり。貴婦人たち扇を振りながら顔をしかむる者多くあり。湯気を上げたる新しき飲み物のうえに、口紅と白粉を施し化粧直したる美しき顔をかざすなり〉。"太陽王"ルイ14世が初めてコーヒーを口にしたのは1664年とされるが、栄華を極めた同宮廷ではコーヒーはさほど普及せず、コーヒーの「ブレイク」は次代のルイ15世時代を待つことになる。

Question2

 17世紀、パリで初めて一般の人々にコーヒーを売った男は何人だった?次の4つのうちから選べ。

a トルコ人
b イギリス人
c アルメニア人
d イエメン人

Answer2 c アルメニア人

 ある記録によると、1672年、カルチェラタン近くの広場で開かれたサンジェルマンの博覧会でパスカルという名のアルメニア人がブースを出してコーヒーを売った。パスカルに雇われたギャルソンたちがいれたてのコーヒーを盆に載せて会場内を売り歩いた。やがて、「小さなカップに入った美味しい黒い飲み物(プチ・ノワール)」は来場者の間で評判になった。プチ・ノワールという言葉は今でもコーヒーを表す言葉としてパリで使われている。博覧会後、パスカルはポン・ヌフの近くに小さなコーヒー店を開業したが、当時はまだコーヒーはそれほど売れず、パスカルは早々に店を畳んで、すでにコーヒーがポピュラーだったロンドンに移ってしまった。

Question3

 1689年の開業から2世紀以上も営業を続けたカフェ・ド・プロコープに集まった当時一流のパリ知識人たちから一目置かれたアメリカ人の思想家・科学者・政治家とは?

Answer3 ベンジャミン・フランクリン

 アメリカ合衆国建国の父として称えられ、アメリカの100ドル紙幣にその肖像が描かれているベンジャミン・フランクリンは、18世紀のパリでもよく知られ、カフェ・ド・プロコープの客たちもコーヒーを飲みながらよく話題にしていた。1790年4月17日にこの著名なアメリカ人がこの世を去った際には、店は"共和制の偉大な友人"を悼んで、店内と建物の周囲に黒い布を張り巡らせた。ちなみに、凧を上げて雷が電気であることを明らかにしたフランクリンはロッキングチェアの発明者でもある。自作の椅子を揺らしながら彼がコーヒーを飲んだかどうかは不明だが......。

Question4

 パリの伝説的なコーヒーハウス、カフェ・ド・プロコープの話題からもう一問。コーヒー代をツケにしてほしいという若き日のナポレオン・ボナパルトの求めに対して、創業者フランソワ・プロコープが求めた"ツケのかた"とは?

Answer4 帽子

 カフェ・ド・プロコープはフランス革命(1789年)においても重要な舞台になる。多くの政治家やジャーナリストが集い、コーヒーを飲みながら意見を戦わせたのだ。そんな中にまだ一介の歩兵隊将校に過ぎなかったナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン1世)もいた。彼はカフェにいる大半の時間をチェスをしながら過ごしたと言われる。その傍らにはコーヒーの入ったカップ&ソーサーがあったことだろう。ナポレオンと言えば、『アルプス越えのナポレオン』に描かれた、帽子を被り、馬に跨がった姿が有名だが、"ツケのかた"になった帽子の形状は不明。また、誰もが知る彼の名言「余の辞書に不可能という言葉はない」とコーヒーとの関わりもぜひ知りたいところだ。

Question5

 19世紀の歴史家のジュール・ミシュレが「コーヒーの出現のお陰で変化した」と記した人間の悪しき風習とは? 次の3つのうちから選べ。

a 飲酒
b 喫煙
c 夜更かし

Answer5 a 飲酒

 18世紀末に800店ほどだったパリのカフェは1843年までにはその数を3000店以上に伸ばした。当時を生きた歴史家のミシュレは「パリ全市が一軒の巨大なカフェになりぬ」と記した。同じ文章の中で、コーヒーの流行で酒場が廃れ、「ワイン樽に囲まれたる中にてふしだらなる行為」や「溝の中にて寝込みし男たち」が減ったと書いている。「コーヒー、それ素面の飲み物、力強き精神刺激物なり。アルコール飲料にあらずして明晰を引き上ぐるなり。コーヒー、それ空想によるぼやけたる深き幻想を抑う。現実を認識せしめて、真実という輝きと陽光をもたらすなり」

Question6

 コーヒーが広く飲まれるようになったことで、パリではあるものが一般に広まった。かつては薬屋で売られていたそのあるものとは?

Answer6 砂糖

 当初、パリではコーヒーにあまりにもたくさんの砂糖を入れて飲んでいた。ナポレオン・ボナパルトの下で修業を積んだスイスの軍人でナポレオン3世とも親交があったアンリ・デュフールは、「それは甘い味のする黒っぽい液体以外の何ものでもなかった」と記述している。貴婦人たちは自分たちの乗った馬車がカフェの前を通ると馬車を止めさせ、使用人に命じて銀製の皿でコーヒーをサービスさせた。その味わいは、コーヒーの酸味や苦みよりも砂糖の甘みが勝ったものだったのかもしれない。

※参考文献/『オール・アバウト・コーヒー―コーヒー文化の集大成』(TBSブリタニカ)

文・構成 浮田泰幸 / イラスト・マツモトヨーコ
更新日:2014/06/27

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