COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2014.06.27

エッセイ*土居利光【時の演出者。】

 新婚旅行はインドネシアだった。もう、30年以上も前になる。1981年、東京国立博物館の「インドネシア古代美術展」に、8世紀末に建立されたというボロブドゥール仏教遺跡の模型が展示してあった。それ以来、実物を見ることが自分の念願となっていた。彼女には申し訳なかったが、わがままを通した。その新婚旅行で訪れたホテルで演奏されていたのがインドネシアの民族音楽、ガムラン。東京でもガムランを教えてくれる教室があると彼女が教えてくれたので、さっそく二人で入門した。

 ガムランの音階にはペロッグ(沖縄民謡の音階と同じ)とスレンドロ(日本の子守唄の音階と同じ)がある。その音階ごとに青銅の打楽器を中心とする楽器群が使われるのだが、練習を繰り返すうちに、自分に音感がないことを自覚した。どちらの楽器群を使うのかわからない。かくして、ガムランとはやがて疎遠となっていったのだが、一方、同じ時期に始めたインドネシア語は続けることになった。ちょっと言葉が通じる嬉しさから、インドネシアを度々訪問した。

 当時は、バリ旅行が流行りだった。そこで知ったのがバリ・コーヒーであり、病みつきになる。粉状にした豆にお湯を注ぎ、上澄みを飲む。しかし、地元の人がやたらに砂糖を入れ、それを勧めるのには閉口した。周囲が水田に囲まれたバリ島のホテル。2階の部屋には、ガラスはなく屋外が眺められるバスルームがあった。トッケイ(ヤモリの一種)が天井に貼りついているのを見ながら、バスタブに身を横たえ、アラックと呼ばれる焼酎やバリ・コーヒーを飲む。コーヒーは簡単に手に入ったものの、アラックは手作りで、瓶も込みの値段で強引に売ってもらったが、底にはアリの屍骸が沈んでいた。朝はお湯が出ないし、スコールの時には雨が降り込んでくる。不便さもあったが、何とも言えない満足感と飲み物の心地よさの記憶を体が覚えている。

 ガムラン仲間と出かけたジョグジャカルタでは、王様の使用人の住居を改造した宿「ジョヨクスマン」に泊まったことがある。その名は不思議なことに忘れられない。着いたばかりの日、布団は自分で外に干すのだと教えられ庭に出ると、先着の仲間が例の上澄みコーヒーを飲んでいた。日差しの中のその姿は、映画の一場面のように脳裏に残っている。

 その頃は、何かと言うと気取ってインドネシアのコーヒーを口にするということが仲間内の常識だった。羽田近くにあったガムランの練習場は、作業場を改造したことに因んで、ちょっとひねって音工場と称していた。音工場で練習の打ち上げやお祝い会などがあると、最後の締めは、お土産として誰かが持ってきたバリ・コーヒーやジャワ・コーヒーであった。また、練習で何曲かこなした後、コピ・スス(ミルクコーヒーの意)というちょっと軽めの曲目が入ると、気持ちが楽になったのは気のせいであろうか。

 インドネシア語とマレーシア語は7割が同じ感じであり、会話が通じるという利点があって、マレーシアにも足を伸ばした。現地にはテェ・タレッ(引っ張ったお茶の意)という飲み物がある。ミルク入りの甘い紅茶であり、片手にポットを持ち、高い位置から糸を引くようにもう一方の手のカップにお茶を注ぎ入れる。適温になるとか、空気が入ってまろやかになるとか言われていた。それが、屋台などで気取って注文する一品となった。コーヒーと紅茶を自分なりに国によって飲み分けていた気がする。インドネシアはオランダの、マレーシアはイギリスの植民地であったことから、飲み物にも本国の嗜好が反映されていた結果であろうか?

 マレー半島のコタバルという街にも行った。彼女は、一日に一回はコーヒーを飲む人であり、その時も「ホテルのレストランなら涼しいし、何でもあるわ」と言って、コーヒーを味わっていた。こちらは無性にビールが飲みたくなって注文したが、メニューにもなく、徒労に終わる。しかたなく暑い街中を探しまわり、中華系の酒屋を1軒だけ発見した。その瞬間、やった! と思うと同時に、イスラム教徒は基本的にお酒を飲まないことを実感した。旅行に行くと、コーヒーをきっかけとして思い出ができる。

 昨年の暮れ、神奈川県の大山に登った。雪が残っている阿夫利神社と大山寺を参拝して「あさだ」という旅館に泊まった。朝食を終えて部屋に戻ると、昨夜の日本酒の瓶がきれいに片付けられた炬燵の上に、インスタント・コーヒーが置いてある。朝日の眩しさの中、足を温めながら彼女と二人でそれを飲んだ。歳をとったのには違いないが、新婚時代とはまったく違う静かな時間の流れである。遠くから二人を眺めると絵になるような不思議な気がした。

 結婚を機に始めたインドネシア語のお陰で、タマン・サファリ動物園からオランウータンやスマトラトラを受け入れるのが円滑にいったし、現地の国立公園のツアーにも楽しく参加できた。ガムランからは、違う分野の人々と知り合えるという機会をもらった。そして、思い出に彩りを添えてきたのが彼女の必需品のコーヒーである。今、コーヒーは時の演出者である、と思う。

PROFILE
土居利光(どい・としみつ)
1951年生まれ。恩賜上野動物園園長。千葉大学卒業後、75年東京都庁入庁。首都整備局、環境局などで都市計画や生態系保全などを担当。2005年多摩動物公園園長、11年より現職。共著に『野生との共存』など。
土居利光

文・土居利光 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2014/06/27

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