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COFFEE BREAK
文化-Culture-
コーヒー歴史トリビア・クイズ【ヨーロッパ浸透期編】
謎めいているからおもしろい!
コーヒー歴史トリビア・クイズ 〈ヨーロッパ浸透期編〉
Question1
"コーヒー"が"coffe"(コッフェ)と記載された最初の印刷物は、イギリス人ウィリアム・パーリーが著したペルシャ旅行記『旅行者』(1601年出版)。本書には、「コーヒーと〈メテグリン〉は飲んだ時の生理的作用が似ている」ことが記されているが、この〈メテグリン〉とは何?
a ワイン
b 蜂蜜酒
c スコッチ
d ビール
Answer1 b 蜂蜜酒
『旅行者』のアレッポ(シリア)におけるトルコ人の風俗習慣について記述した部分に、「(コーヒーは)芥子の実に似たる種子より作りしものにて、時をおかずして脳を酩酊させるはメテグリンに似たり」と記している。この時代、イギリス人による著述には、コーヒーについて「人々の至上の愉しみ」「元気を回復し、血液を清めるうえで、きわめてよし」「消化不良の予防にきわめてよしとする」など、好意的な説明が目立つ。
Question2
イギリス、デボン州エクゼターにあった「モルズ・コーヒーハウス」は17世紀に開業したイングランドで最初のコーヒーハウス。ここでコーヒー以外にもうひとつ「イングランドで初めて」楽しまれたものがある。さて、それは何?
Answer2 タバコ
現在は画廊になっている「モルズ・コーヒーハウス」は、もともと地元の名士が集まるクラブハウスで、著名な会員の紋章が今も壁を飾っている。女王エリザベス1世の寵臣としても知られる探検家、作家、詩人のウォルター・ローリー卿は、この場所で気の合う仲間たちとコーヒーとタバコを嗜み、歓談した。
Question3
17世紀、ロンドンに登場したばかりのコーヒーハウスでコーヒーはどのようにして飲まれていたか?
a ハチミツを溶かして
b 芥子と混ぜて
c バターと塩油を溶かして
d ブラックで
Answer3 d ブラックで
正解以外の3つはすべて、当時の健康法で試されたコーヒーの飲み方。ロンドンに最初のコーヒーハウスが開業したのは1652年のこととされているが、コーヒーは嗜好品として広まったのと同時に、そのさまざまな効能から、医師たちが使う薬としても広まったのだった。例えば、ウォルター・ラムゼーという人物が考案した「舐め薬コフィ」というのは、溶かしたバターと塩油を合わせ、ハチミツを溶かしたところにトルココーヒーの粉を加えてつくる「胃洗浄」のための調合剤だった。
Question4
スウェーデンでは1740年代にコーヒーを飲用する人に国王布告が出され、消費税を課した。その申告を怠った者は逮捕され、罰金(銀貨100枚)を支払わされたうえ、さらに罰としてあるものが没収された。あるものとは以下の3つのうちのどれ?
a カップとソーサー
b コーヒーミル
c コーヒーテーブル
Answer4 a カップとソーサー
北欧にコーヒーが伝わったのは、イギリスやフランスなどよりも遅く、1700年代に入ってからのこと。新奇なものがものすごい勢いで流行する場合にはよくあることだが、コーヒーがあまりにも爆発的に広まったものだから、支配者層から反感を買うことになった。1746年、スウェーデンでは「茶とコーヒーの乱用と過剰飲用」を禁じる国王布告が出された。翌年から課せられるようになったのが問題の消費税。カップはともかく、ソーサーまで没収してしまう心理が面白い。1756年にはコーヒー飲用が禁止になるという「暗黒の時代」もあったが、人々のコーヒーへの愛を打ち消すことはできなかった。
Question5
18世紀にはドイツでもコーヒー受難の時期があった。1777年、フリードリッヒ大王は「コーヒーよりもビールを飲め」と宣言した。なぜ、王はコーヒーの流行を危惧したのか?
Answer5 通貨の国外流出が発覚したから
18世紀後半になると、コーヒーは家庭にも浸透し、朝食時にそれまで飲まれていた雑穀粉末のスープや生温かいビールにコーヒーが取って代わった。コーヒーが流行すると、生豆コーヒーの代金が大量に外国人コーヒー商人に支払われることによりドイツ通貨が国外に流出するという事態が生じ、王を慌てさせた。王によるコーヒー禁制は国民の総スカンに遭って頓挫する。その代わりに王はコーヒーの販売を政府独占とし、コーヒー焙煎は貴族や聖職者、政府役人など上流階級の特権とした。焙煎許可を持つことが一種の成功者の証になったのだ。
Question6
ウィーン初のコーヒーハウスを開いたコルスツキーは17世紀、トルコ軍による包囲からウィーンを救った英雄だが、彼の戦時の役割とは?
a 司令官
b 連絡係
c コック
Answer6 b 連絡係
1638年7月、30万人のトルコ軍にウィーンは包囲される。レオポルト皇帝は辛くも包囲網を脱出し、町はシュターヘンベルグ伯爵率いる守備隊が死守していた。このとき、援軍を出すと約束していたポーランド王国との連絡係に起用されたのが、かつてトルコ人と生活をともにしたことがあり、言葉や習慣に通じていたポーランド人、コルスツキーだった。命がけの連絡係の手柄によって、ポーランド軍の助けを借りた皇帝陣営は見事な勝利を収めた。トルコ軍が敗走したあとにはテント、ラクダ、食料などさまざまなものが残され、戦利品として分配されたが、コーヒー豆の詰まった袋の値打ちを知っていたのはコルスツキーひとりだった。コルスツキーは英雄の名誉とともにコーヒー豆を手に入れ、トルコ風コーヒーを提供する店を開いた。現在でもウィーンでは、コルスツキーはコーヒーハウスの守護聖人として讃えられ、コルスツキー通りには彼の彫像が残っている。