COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2013.06.25

〝空飛ぶ伊達男〟サントス・デュモンの飲んだコーヒー。

独創的なファッションと「空の冒険」はパリ中の話題になった。

ライト兄弟の偉業が明らかになるまで、世界中で「初めて飛行機で空を飛んだ」と信じられていた男がパリにいた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ベルエポックのパリを彩った、ブラジル出身の一人の男の足跡をコーヒーから辿ってみよう。

ラ・グランド・カスカードのメートル・ドテールに「サントス・デュモンがいると思ってコーヒーをサービスしてください」とお願いしてみた。

1857年創業のラ・グランド・カスカード。この傍にサントス・デュモンは飛行船を着陸させた。

優雅な店内。映画『昼顔』にも登場した。今も、ミシュランの1つ星を保持。

 サントス・デュモンって知っていますか?と訊かれて、「はい」と答える人がどれくらいいるだろう? 同じ質問をブラジルでしたら、老人から子どもまで、ほとんどすべての人が「Sim(はい)」と答える。かの地では、サントス・デュモンはペレやアイルトン・セナと並ぶ国民的英雄なのだ。

 1873年7月20日、アルベルト・サントス・デュモンはブラジル・サンパウロ州の裕福なコーヒー農園主の末っ子として生まれた。この地のコーヒー栽培に関する最も古い記録(1797年)には「サントス村ではコーヒーが豊富で品質最高」という記述が残る。村名のサントスとサントス・デュモンは無関係だが、この符合は面白い。サンパウロ州は19世紀後半から20世紀半ばまでブラジル随一の生産地だった。アルベルトの父エンリークは、コーヒー栽培が爆発的に広まった時代、この地に君臨する〝コーヒー王〟だったのだ。

 アルベルト少年は家業の成功に守られて何の不自由もなく育った。コーヒー農園を見晴らす邸宅のベランダで〝SFの父〟ジュール・ベルヌ(出世作は『気球に乗って五週間』)の小説を貪り読んでは夢想に耽っていたという。このときの夢想が後に彼を飛行家に育て上げる。父や兄が馬を駆って農園の見回りに出ている間、アルベルト少年はコーヒー豆の加工場を遊び場にして過ごした。果肉採取機や皮むき機の仕組みに少年は夢中になった。7歳にして牽引車を運転、12歳のときには農場を走る機関車を運転してみせた。

"プティ・サントス"が追い求めたのは空への夢。

マキシムはベルエポックの中心的レストランだった。

コーヒー農園主の家に生まれたサントス・デュモンはコーヒーを愛した。

 一家を悲劇が見舞ったのは、アルベルトが18歳のときだった。父親が落馬事故で大けがをしたのだ。治療の甲斐なく父親は回復せぬまま他界。残された莫大な財産を持ってアルベルトは故郷を離れる。向かった先はパリだった。

 エッフェル塔が建って間もないパリは刺激に満ちていた。ピカソやプルーストやネリー・メルバといった面々が集い、時代に新風を吹き込もうとしている街にサントス・デュモンは飛び込んだ。パリで彼が打ち込んだのは空を飛ぶことへの挑戦だった。すでに100年も前から気球は空に上っていたが、それは風任せの浮揚に過ぎなかった。サントス・デュモンが目指したのは空中でコントロールの利く可動飛行だった。1901年10月、〝プティ・サントス〟(小柄だったことからパリっ子に付けられた愛称)は自作の葉巻型飛行船でエッフェル塔の周囲を半時間にわたって操縦飛行するという、航空史に残る記録を作る。それ以降も飛行船の改良を続け、さらには飛行機の開発に挑む。

[右上]バラドゥーズ(散歩人)と呼ばれた9号機。 [左上] エッフェル塔の周りを飛んだ6号機。 [右下] 「世界初飛行」と報じられた14ビス号。 [左下] 軽飛行機ドゥモワゼル(トンボ)号。以上、すべてル・ブルジュ航空宇宙博物館で撮影。

 1906年10月、箱形凧のような飛行機「14ビス」号でサントス・デュモンがブーローニュの森を飛んだとき、まだライト兄弟の飛行(1903年)を知らなかった世界は、「人類初の飛行」と大々的に報じたのだった。プティ・サントスはパリの社交界でも有名な存在だった。ディナーは毎日のようにレストラン、マキシムで取った。エッフェル塔の周りを飛んでドゥーチ賞(*1)を獲った日の祝賀パーティもマキシムで行われた。彼のシャツの高い襟、パナマ帽の縁を下に垂らす冠り方、女性用のオペラ観劇用コートを着るスタイルはすぐに真似られた。

コーヒー・ブレイクのために"緊急着陸"。

左:ゴンドラの上で食事をするための訓練にと特注された脚の長い椅子とテーブル。右:ロスチャイルド家の庭に墜落したときの様子。

サントス・デュモンは航空に関する研究成果を特許に閉じ込めることなくすべて解放した。

 空の上でも伊達男ぶりは変わらなかった。空中でエレガントに食事できるようにと、椅子とテーブルを自宅の天井から吊り、そこで食事を取る練習をした(すぐに天井が落ちてしまったので、脚の長い椅子とテーブルに変更した)。散策用に造った小型飛行船バラドゥーズ号でブーローニュの森にあるお気に入りのレストラン、ラ・グランド・カスカードにふらりと舞い降り、ランチを取った。飛行実験中にワシントン通りの自宅に「緊急着陸」し、側仕えのシャルルにコーヒーをいれさせて一服した後に飛び去ったりもした。コーヒーに対する愛着は人並み以上だったようだ。彼の絶頂期に出版された自著『空へ』の序章でコーヒーに関する知識をユーモラスに披露している。

〈黒いコーヒーの果実は、青いときには赤い色をしている。こんなふうに言うとややこしいかもしれないが、その実はサクランボに似ているのだ〉

夢破れた飛行家は、"コーヒーの国"に帰る。

少年時代のサントス・デュモンに決定的なインスピレーションを与えたジュール・ベルヌの本。右は『地底旅行』の表紙、左は『気球に乗って五週間』の扉。

 36歳で多発性硬化症を発症したサントス・デュモンに、動力付飛行機による飛行成功は実はライト兄弟が先だったという報告が追い打ちをかける。飛行船や飛行機が戦争の武器として使われ始めたことも平和主義者で理想家だった彼を苦しめた。1932年7月、59歳の誕生日を迎えたばかりのサントス・デュモンは故国のホテルで首を吊って自殺した。晩年の彼がどんなコーヒーを飲んだのか。その疑問に答える資料は残念ながら見当たらない。

文・浮田泰幸/写真・吉田タイスケ
更新日:2013/06/25

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