COFFEE BREAK

世界のコーヒー

世界のコーヒー-World-

2012.02.28

内藤毅の世界探訪 Vol.3[アルバニア]

世界120カ国を旅して、数え切れないほどコーヒーを飲み、カフェの写真を撮ってきた。第3回目は、ギリシャの西北に位置するアルバニア。コーヒーと縁の深いお国柄です。

不思議の国アルバニアで、美味いトルコ・コーヒーを。

 アドリア海を挟んでイタリアの対岸のバルカン半島にアルバニアがある。長い間鎖国をし、「トーチカ」という世にも不思議な個人用防護陣地が、四国の1・5倍ほどの狭い国土に数十万個も残っている。鎖国時代に侵略してくる敵から身を守るために建設されたもので、おわん形のコンクリート製。直径3~5メートルくらいで、地上部の高さは2~3メートルくらいある。  アルバニアはかつて世界最貧国のひとつといわれ、荒れ果てていた。1 990年代半ば、無政府状態に近いアルバニアを旅したアメリカ人作家ポール・セローは、アルバニアの物乞いについてこう書いている。 「みんなが私のまわりに群がり、服をひっぱりポケットに手をいれた」(『大地中海旅行』NTT出版)。  私はこの謎めいた国に、2001年と2009年の2度、旅をした。この不思議の国は大きく変わっていた。

身の危険を感じる?タクシー運転手のケーキ。

上2点:写真好き、コーヒー好きのカフェの主人と客。左下:トルコの肉団子「キョフテ」を売る男。(以上2009年シュコダルで撮影)右下:バスの中から見たギリシャ国境近くのトーチカ。(2001年撮影)

 当初、私はアルバニアに2度も訪れるつもりはなかった。2009年の旅では、クロアチアからモンテネグロに入り、その後、アルバニアには向かわずにコソボ、マケドニア、ブルガリアを回るというルートを予定していたのだ。アルバニアを避けたのは、ある人から「アルバニアは誘拐が多い」と脅されて、半ば信じたからだ。だが、ガイドブックにはモンテネグロからコソボへは入りづらいと書いてある。渋々、アルバニアへ向かうことになったのだ。  アルバニア第4の都市シュコダルへ行くバスに乗るため、モンテネグロの最南端の都市ウルツィニィに着くと、すでに夕方。その日出発するバスはもうなかった。すると、シュコダルへ向かうタクシーの運転手と客の年配の女性が声をかけてきた。不安があったが乗ることにした。客の女性はロサンゼルスに住んでいて、故郷のシュコダルへ一時帰国するという。独裁・鎖国時代に多くのアルバニア人たちが国外脱出し、欧米に住みついたが、民主化と共に帰国する人が増えていた。  タクシーは車が全く通らない林と野原の中の道路を疾走していった。年取った運転手が女性客と私に小さなカップケーキをくれた。タクシーの運転手に食べ物をもらったのは初めてだ。「誘拐」という言葉が頭に浮かび、睡眠薬入りを恐れ、ケーキはバッグにしまった。  タクシーは国境を越え、アルバニアへ入る。耕された畑が広がり、ところどころに建つ民家の外壁はなんとピンクや黄色や赤で塗られていた。非常にカラフルな農村だ。  8年前の2001年1月、オフリド湖の近くのマケドニアとの国境から初めてアルバニアへ入った時には、どんよりと曇っていたせいもあるが、大地も農家も荷車を引くロバもすべて黒ずみ、まるで墨絵の中にいるようだった。黒味を帯びたトーチカも異常に不気味で、バスの窓越しに恐る恐る撮ったものだった。2009年には、そのトーチカが掘り出されて、畑の中にころがされているものもあったのだ。

シュコダルのカフェで、コーヒーをごちそうになる。

とにかくカラフルな住宅がいっぱい。赤や黄色の出窓はまるで宙に浮かんでいるよう。水玉模様の洪水には、トーチカの形を連想してしまった。緑の木を描く遊び心が憎い。(以上すべて2009年ティラナで撮影)

 さて、そんな〝親切な〟、タクシーに揺られ2時間ほどで着いたシュコダルもカラフルな街だった。通りの両側に並ぶ集合住宅の外壁は淡いピンクや黄色などで塗られていた。しかもカフェが、やっていけるのかと心配になるほど多かった。それだけでこの街が好きになった。集合住宅の1階のカフェは小さく、内装も地味で客は男たちばかりだったが、猛烈に写真を撮りたくなった。でもカメラを取り出せない。  前回アルバニアに来た時にティラナのカフェの写真を撮ろうとして、大きな恐怖を味わったからだ。メインストリートのカフェで、突然客の男が「アルバニア、アルバニア」と叫びながら、「出ていけ」とドアを指差した。女性客にも八つ当たりしている。男はなおも怒鳴り続けた。私は身の危険を感じて外へ出た。鎖国時代には外国人は自由に旅行できず、ましてや写真を撮るなど問題外。鎖国は終わり、外国人には旅行も写真も自由になったが、それを許せない人がいたのだろう。  というわけで、他の国のカフェでなら出せるカメラも、シュコダルでは出せないのだ。だが、あれから8年が経っている。意を決して、恐る恐るテーブルに座る4人の男性客に声をかけた。「待ってたよ」とばかりに、椅子をずらして並んでくれた。そばにいた3人組が「俺たちも」と催促までしてくる。ダルマのような体型の味のある主人も写真好き。  別の店に入ってエスプレッソを飲みながら、隣の鳥打帽の老人に声をかけ撮影。他に2人の客を撮り、主人にコーヒー代を払おうと近づくと、右手を胸に当て軽く頭を下げながら「3人の写真を撮ったお礼」というのか、コーヒー代を受け取らない。感激してしまった。  集合住宅の端にモスクが建っている。オスマントルコはイスラム教とトルコ・コーヒーとトルコ料理をアルバニアに伝えた。モスクのそばの車の屋台で売っているひき肉を棒状に丸めた「キョフテ」も、トルコ料理の影響を受けている。食べてみると、硬いが肉の旨味が出ていてなかなかいい味だ。  泊まったホテルの近くの奇妙な建物にカフェがあった。1階は広いカフェだが、2階は外壁がなく柱が目立ち、未完成。こんな建物のカフェは初めてだ。アルバニア人は面白いことをする。  そういえば以前来た時、道端で水が空高くホースで吹き上げられているのを見た。「ここで洗車ができる」とアピールしていたのかもしれない。道が悪く、車がよく汚れたのだろう。次の日の朝6時、ティラナ行きのバスに乗った。道は舗装されており、もう道端では水が吹き上げられていない。

水玉模様の集合住宅と、トルコ・コーヒー。

 終点に近づくと、窓の外にまるで遊園地にあるような派手な水玉模様の建物が続くのでびっくりしてしまった。バスを降りてあわてて戻ってみると、それは5階建ての集合住宅だった。色は4種類。地がオレンジで水玉が赤のものが1番目立つ。水玉模様の服はあるが、水玉模様の建物は初めて見た。  美観を考えているのか、洗濯物を干した光景はあまり見なかった。その代わり、丸い衛星放送のアンテナがやけに目立った。1階にはファストフード店や商店があった。歩道にはカフェのテーブルが並び、スカーフをかぶり、水玉模様の服を着た可愛いおばあさんが毛糸を紡いでいた。

左:イブリックからトルコ・コーヒーをカップに注ぐ食堂の女主人。右上:道端で羊毛から毛糸を紡ぐおばあさん。(以上2009年ティラナで撮影)右下:かつては、道路わきに洗車用の水が吹き上がっていた。(2001年オフリド湖近くで撮影)

 私は近くの小さな食堂に入った。メニューを見るとコーヒーはエスプレッソの他にトルコ・コーヒーがある。パンとスープとお茶とトルコ・コーヒーを頼んだ。コーヒー以外はすぐに出てきたが、コーヒーは女主人がひとり分をわざわざ作り始めた。カウンターに置いた小さな携帯用ガスコンロに火をつけ、トルコ式コーヒーポットの「イブリック」を載せたのだ。中には水とコーヒーの粉と砂糖が入っている。何枚も写真を撮ったが、女主人は嬉しそうな笑顔で作っている。出来上がると小さなカップに注いで出してくれた。濃くて甘くて、なかなかの味だった。  アルバニアにこうしてトルコ・コーヒーが広まっているのは、15世紀の初めから400年にわたってオスマントルコの統治下にあったからだ。16世紀半ば、コーヒー発祥の地といわれるエチオピアから、アラブを経てオスマントルコの首都イスタンブールにコーヒーが伝わったとされる。1554年には、イスタンブールに豪華なカフェもオープンしたという。

人もカフェもすべてが、変わってゆくティラナ。

カラフルなパラソルと椅子、華やかなカフェがあちこちに登場。(2009年。ティラナで撮影)

市場で人気のグリルチキンはバルカン半島ではおなじみだ。(2001年。ティラナで撮影)

 私はカフェでくつろぎながら、初めてアルバニアに来た時のことを思い出していた。当時、国民の3分の1が財産を失ったネズミ講事件からまだ4年。経済は疲弊していた。黒ずんだ汚れた建物が目立ち、黒い服を着た男たちが道で固まって深刻そうに立ち話をしていた。こんな状況の中ではカフェなどないと思っていた。しかも、それまでアルバニアのカフェの写真など見たことがなかった。だが、街の中心の広場の先に何店ものオープンカフェがあったので驚いてしまった。コンクリートや石の敷地が1店1店、鉄の柵や低い生垣で区切られていた。カフェの建物の周りには地味なテーブルと椅子が間隔をあけて置いてあり、そして大きな木が立ち、林の中のカフェの雰囲気を作り出していた。客は黒い服を着た男たちばかりだった。渋くてユニークなカフェ。アルバニアが長きにわたり、コーヒー文化の栄えたオスマントルコの統治下にあったからかもしれない。  2009年、ティラナの街はカラフルになっていた。ティラナほど変化が著しい首都はないかもしれない。オープンカフェも変わった。噴水、棕櫚の木、赤いパラソルがあり、女性客も目立つ。明るく、開放的で南欧的だ。テントを使ったカフェに入るとテレビ画面はマドリードのファッションショーを流していた。その店の建物に入ると大勢の若いおしゃれな女性が一斉に私に目を向けた。隣の垢抜けたファストフード店はピザとエスプレッソを売っていた。ティラナにはイタリア料理の店も多い。市場では以前と同じようにグリルチキンが美味しそうに並んでいた。オリーブの実の写真を撮ると年取った男の客が文句をいったが、その声は小さかった。
アルバニアの歴史 アルバニアで愛されているトルコ・コーヒーは、アルバニアの歴史を物語る。アルバニアは、中世ビザンチン帝国からブルガリア帝国、セルビア帝国の統治の歴史を経て15世紀初めから400年にわたってオスマントルコの統治下にあった。20世紀前半に独立。第二次世界大戦後は共産主義国家となったが、ユーゴスラビア、ソ連、中国など東側の国々とも対立し、鎖国政策をとる。この間、侵略、核攻撃に備えて個人用防護陣地トーチカを1家にひとつのペースで造ったといわれる。1990年に民主化・資本主義に移行。1997年にはネズミ講事件で国民の3分の1が財産を失い暴動が発生。その後安定し、EUの加盟を計画しているが、今そのEUが混乱している。
トーチカ 鎖国時代に造られた個人用防護陣地トーチカは軍事施設だ。初めてアルバニアに来た時にギリシャ国境近くの牧草地帯に並ぶトーチカを見つけ、バスの中から写真を撮ると老人が怒り出した。だが、バス会社の男たちが、笑いながら反論してくれた。トーチカは現在、全土に数10万も残る。地下1.5メートル、コンクリートの厚さは50センチもあるので壊しにくく、アルバニアでは邪魔者の扱い。だが、レストランやカフェになったものもあるという。観光客も増え、内部を見学したり記念撮影に忙しい。面白いのは、トーチカの形をしたおみやげ品の石の灰皿。政府発行の観光パンフレットにこの灰皿の写真が使われているので唖然。今やトーチカは観光資源?
Republic of Albania アルバニア共和国
アルバニア共和国主要情報 ■面積:約2万8700 k㎡(四国の1.5倍) ■人口:約316万人(2009年、世銀) ■首都:ティラナ(人口約55万人) ※外務省HPより(2011年5月現在)
内藤 毅(ないとう・つよし) 出版社勤務を経て、フリーランスへ転向。海外での取材・撮影歴が長く、訪れた国は120カ国以上。その作品は、新聞、雑誌、テレビ番組などでも数多く取り上げられている。主な著書に『TOKYO図書館ワンダーランド―首都圏オモシロ図書館100館走破』(日本マンパワー出版)などがある。
文・写真 内藤 毅 / イラスト おおの麻里 更新日:2012/02/27
PAGE TOP