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コーヒー・ワンダーランド

エッセイ*鹿島茂【エスプレッソ、その語源。】

 エスプレッソ文化はもう日本にしっかり定着している。しかし一九七九年に半年ほどパリに滞在して帰国し、エスプレッソが飲みたくなって東京中を探しまわったときには、エスプレッソ・マシーンを備えている店は数軒しかなかった。いずれも当時、何百万円もした業務用エスプレッソ・マシーンを輸入して、フランスやイタリアのエスプレッソ文化を定着させようと孤軍奮闘していたのである。
 こんな状況は一九八四年から一年間、在外研修でパリにいたときにも変わりなかった。同じ頃に在外研修でパリにいた先輩の中には、日本でもエスプレッソを飲み続けるために、帰国直前にパリのデパートで五〇万円もする家庭用エスプレッソ・マシーンを購入した人さえいた。
 それからしばらくたって、一九八七年頃から急速にエスプレッソが普及しはじめたことは誰でも知っている。いまでは数万円でエスプレッソ・マシーンが買える。こんな時代になろうとは誰が予想しただろうか?

 ところで、このエスプレッソ、フランス語ではexpressと綴って「エクスプレス」と読む。これはフランス語の教師をやっていた私のような人間からすると、少し変な綴りなのだ。というのも、正しいフランス語なら、exprèsと綴って「エクスプレ」ないしは「エクスプレス」と読むか、あるいは女性形に変化させてexpresseと綴って「エクスプレス」と読むのが正統な綴り字法だからである。ではいったい、このexpressという面妖な綴りはどこから来たのだろうか?
 辞書を引くと、英語のexpress(急行の、高速の)から来たと説明がある。たしかに、そう言われてみれば急行列車は train expressだし、パリ圏を走る電車はRER(Réseau Express Régional)だ。
 しかし、こういわれても、いま一つ納得行かないものを感じる。なぜなら、エクスプレスはまちがいなくイタリアからフランスにもたらされたもので、イギリスやアメリカからではないからだ。

 起源には諸説はあるものの、通説を信じれば、エスプレッソは一九四六年にイタリアのガッジアという人物が発明し、一九五〇年頃からイタリアで普及しはじめ、一九五〇年代の後半にフランスにも伝わったらしい。そうしたフランスへのエスプレッソの伝播に関して一つの証拠となっているのがミシェル・ビュトールが一九五七年に発表した『心変わり』という二人称の小説である。一九五五年頃の時代設定で、イタリアとフランスを往復している「きみ」と呼ばれる主人公はパリのリシュリュー通りのレストランに入ってスパゲッティ・ボロネーゼを注文する。しかし、出てきたのはとてもボロネーゼとはいえない代物だった。次にエスプレッソを頼む。

「コーヒーについても、店のものは微笑を浮かべながら、エスプレッソでございますと断言していたが、数分後に運ばれてきたのはフィルター・コーヒーだった。たしかに、とてもきちんとしたフィルターではあったが、きみには、フィルターからコーヒーが濾過されてその下の茶碗にいっぱいになるまで待っている気がなく、勘定を払った」(清水徹訳 岩波文庫)

 フィルター・コーヒーのフランス語原語はcafé-filtrè(カフェ・フィルトル)。 コーヒー・カップの上にアルミニウム製のフィルター装置を載せた状態で客に供する。一九五〇年代のフランスではこれがどのカフェでも普通に出てくるタイプのコーヒーで、一九五五年の時点では、『心変わり』の「きみ」が大好きなイタリアのエスプレッソはパリにはまだ伝播していなかったのだ。ちなみに、私は二〇〇〇年にベトナムのホー・チ・ミン市に旅したが、カフェで出てきたのがこのカフェ・フィルトルだった。ただし、コンデンス・ミルクが入ってベトナム・コーヒーという名になっていた。フランス植民地だったベトナムでは一九五三年のディエン・ビエン・フーの戦いを境にフランスが全面撤退したため、カフェ・フィルトルだけが化石のように残り、ドイモイで外国人が入ってくるとベトナム・コーヒーとして蘇ったのである。あれからすでに二〇年ちかくたっている。いまでもベトナムにカフェ・フィルトルはエスプレッソに駆逐されずに残っているのだろうか?

 さて、脱線が続いたが、そろそろ、話をexpressという綴りに戻そう。カフェ・エスプレッソcaffe espressoがフランス語でcafé espressoとならずに、café expressという英語風の綴りになったのは、すでに「急行・特急・高速」という意味の英語expressがフランス語に入っていたため、短時間抽出のエスプレッソが伝播した際、英語からの類推でこの綴りとなったものと思われる。正統語法主義者である私には違和感がある綴りだが、幸いなことに、 日本語においてはフランス語のエクスプレスではなく、語源的正統性を持つイタリア語のエスプレッソが勝利した。日本人はやはり語源には厳密のようである。

Profile

鹿島茂(かしま・しげる)
1949年、横浜市生まれ。フランス文学者。明治大学国際日本学部教授。『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。近著に『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三』(中央公論新社)など。
©白鳥真太郎
鹿島茂

文 鹿島茂/イラスト 唐仁原多里
更新日:2019/08/30



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