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コーヒー・ワンダーランド

エッセイ*森村誠一【珈琲の美しき香り。】

 戦争中敗色濃厚なとき、無い無いづくしの中で父親は柿の葉っぱから珈琲の代用品を作った。珈琲が好きな父親のおこぼれで苦くて黒い液体が好きになった。
 終戦が近くなり、無い無いづくしで配給はイモだけになった。毎日のようにB29の大群が全国に爆弾を撒き散らし、私の郷里は終戦前夜、焦土と化した。幸運にも生き残った私はイモで飢えをしのぎながら、父が作った柿の葉の珈琲とやらを飲んでいた。美味いとはおもわなかったが、父が連れて行ってくれた喫茶店の珈琲の味に似ていた。
 そして終戦の詔勅と共に戦争は終わった。
 全国焦土と化した本土に米軍の兵士が進駐してきた。私の郷里埼玉県熊谷市へも夏の終わりに進駐軍がやって来た。
 彼らは、街の近くを流れる荒川の河原へ、軍の車を洗いに来たのである。洗車後、食事を摂って帰って行った。河原で水遊びをしていた私を含めた河童たちは、兵士たちが去った後、彼らの食堂の跡に群がった。
 米兵が食べた河原の食堂跡には見たこともない食物が残されていた。その中に塊のようなものがあった。彼らはそれを「食える泥」と言って、口をつけずに捨てて行った。その泥の塊を口に入れると口中が爆発するような味であった。後にココアの塊と知ったが、父が連れて行った喫茶店の珈琲と、柿の葉っぱの珈琲の味に似ていた。
 私があらためておもいだしたのは、進駐軍兵士の置き土産であった。戦後の戦乱の中に軍隊は消撒し、隣国の戦争のおかげで我が国の経済は一挙に成長し、日本にとって欠かせない戦争となった。美味しい珈琲を探して歩きまわるとき、父親が作った柿の葉っぱの珈琲や、米兵が荒川の河原に置き残していった「食えない泥」どころか口中が爆発するような味をおもいだす。
 教育制度が変わって郷里の商業高校に六年、青山学院(大学)に五年、そして九年ホテルマンとなり、作家となった。
 ホテルに在社中は、社内の珈琲ショップで珈琲を飲んだ。その間、私は珈琲と切っても切れない関係になった。
 珈琲そのものだけではなく、行きつけの店の雰囲気、器、顔なじみになった常連たちは、私を含めてキープカップする者もいた。
 喫茶店は、自宅と異なる人生の拠点になっている。珈琲の味、店の雰囲気、家族と異なるマスターとの切っても切れない人生のオアシスになっている。
 声をかけ合わなくとも、そこは常連たちの取って置きの隠れ場所である。常連にとって生活の拠点の一つであると同時に、なくてはならない美しく、あたたかい、家庭にはない秘所である。
 花の満開時、常連の指定席に一弁の花びらが落ちていた。近くに桜はなく、旅人が満開の桜の下を歩いて、かぐわしい珈琲の香りに誘われて、指定席に一弁の花びらを運んで来たのであろう。
 常連は隣りに座った美しい旅人を想像している。常連と異なり、香り高い珈琲に誘われて途中下車したような旅人の人生の断片を残していったのであろう。
 常連にとってカフェはそれぞれの人生の拠点であるが、店主の都合によって常連たちの重要な拠点が閉店することがある。
 私も行きつけのカフェが都合によって閉店し、人生の拠点を失ったことがある。
 閉店と同時に常連たちとも別れなければならない。
 常連たちは、だれ言うとなく集まり、新たなオアシスを探すことになった。人生の拠点の一つを失った常連たちにとっては、新たなオアシスを見つけない限り、それぞれ気に入った人生を完成できなくなってしまう。
 人生は、ただ生きるだけではない。ラストカップから新たなカップを探し出すまで永遠に七つの海をさまようオランダ人のようになってはならない。珈琲の香りには、人生の味がある。
 交通機関の発達により、旅が移動に変わってしまった。美しい風景や旅恋いに誘われて途中下車したとき、まず駅から離れた未知の町ならではのカフェを探す。
 移動ではなく旅恋いに誘われて、旅先には珈琲の香りが旅人を呼ぶ。
 旅人の途中下車を誘った地平線や水平線の彼方に虹が架かっている。
 大きな駅には必ずカフェがあるが、小さな駅の近くに隠れたようにあるカフェは遠方へ行く旅人たちを優しく迎えてくれる。その優しさが香りとなって移動を旅に変えてしまう。
 旅は目的がないほどよい。「自由」という言葉が旅に最もよく嵌まる。虹を追う旅人、それは青春の幻影でもある。珈琲の香りには人生の幻影があり、幻影は遠方にあればあるほど、珈琲の香りが美しくなる。

Profile

森村誠一(もりむら・せいいち)
1933年埼玉県生まれ。青山学院大学卒業後、ホテルマン生活を経て作家に。『人間の証明』『青春の証明』『野性の証明』の「証明」三部作により現代日本を代表する推理作家としての地位を確立。現在も意欲的な作家活動を展開している。
森村誠一

文・森村誠一 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2017/12/20



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