COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2016.12.15

エッセイ*海堂 尊【コーヒー・ジャンキー。】

 学生時代、地理が苦手だった。どれくらい苦手かというと高校の時、必修科目が地理から歴史になった途端、学年順位を百人ごぼう抜きしたくらいだ。何しろ興味がわかなかった。

 一方、コーヒーは文学の思い出と深くつながっている。大学時代、剣道部に所属していた。硬派で活動はハードだったが、寒稽古が終わり春合宿まで真冬の二カ月は長期休みになるという、不思議な慣行があった。その二カ月間、私は付け焼き刃の文学青年になった。居間のコタツに積ん読本を積み上げ、ショパンだの中島みゆきだののLPをヘッドホンで聴きながら読書に耽る。プルーストの大作『失われた時を求めて』を読破したのもこの頃だ。巣ごもりと称し、コーヒーをがぶ飲みした。コーヒーメーカーで一回いれると五杯分になる。これを一日三回はいれていたから毎日十五杯は飲んでいた勘定になる。

 医師国家試験の勉強の時もがぶ飲みした。要するに勉強とコーヒーは相性がいい。ところが外科医になるとコーヒーを飲まなくなった。切った張ったの毎日には、コーヒーによる覚醒より、アルコールによる感覚鈍麻が必要だったのだ、と今ならその理由を論理的に説明できる。けれども当時は、コーヒーを飲まなくなったという自覚すらなかった。

 外科医から転身して顕微鏡で診断する病理医になると、職場にコーヒーメーカーが置いてあり、秘書さんがコーヒーをいれてくれたので、コーヒー熱が再燃した。大名気分で仕事をしたが、これも診断という頭を使う業務のせいだったのかもしれない。つまり私にとってコーヒーとは、デスクワークに欠かせない存在なわけだ。

 家にあったコーヒーメーカーはミル付きのタイプだったので、店で豆を買ってきては片っ端から試した。ブルーマウンテン、モカ、キリマンジャロ、コロンビア、グアテマラ、トアルコトラジャなどを飲みながら、コーヒーの銘柄ってお洒落な名前をつけるのがうまいなあ、などと思っていた。そうしてブラジルにたどりついた時、ある疑念が頭に浮かんだ。

 この銘柄名って、ひょっとしたら国名や地名なのではあるまいか......。

 世界地図を取り出し確かめてみると、あったあった。モカはアラブの港街の地名だし、キリマンジャロはアフリカの名峰でブルーマウンテンはジャマイカの山脈の名前だった。そんなの、コロンビアやグアテマラが国名なんだから、ブラジルの前に気づきそうなものだが、ここで冒頭に敷いた伏線が生きる。思い出して欲しい。私は地理が苦手な学生だった。コロンビアやグアテマラが、ブラジルと同じラテンアメリカにある国だ、ということを、大学生の私はその時初めて理解したのだった。

 あれから三十年が経った。私はアンダーグラフの『ツバサ』を聞きながらコーヒーをがぶ飲みし、デビュー作『チーム・バチスタの栄光』を書き上げて作家に転身した。そして今はチェ・ゲバラの人生を追い、キューバ革命の世界を描こうと二十世紀のラテンアメリカを逍遙している。今の私は、コロンビアはかつてパナマ運河建設でアメリカ合衆国と揉め、ボゴタソという暴動で大変な思いをした国であることを、あたかも自分自身の思い出のように語っているし、グアテマラが米国CIAの介入で民主政権を破壊され、滅茶苦茶にされてしまったことに憤ったりしている。なのに喫茶店でグアテマラだのコロンビアの名称の並ぶメニューを眺めていると、その言葉のウラにそういった国がある、という事実はたちまち消え失せ、文学青年が読書のお供に飲みまくった飲み物の、魔法の呪文のような言葉の響きが甦る。

 最新作『ポーラースター ゲバラ覚醒』はラテンアメリカ四部作になる予定だが、これが五部作、六部作に拡大される可能性も高い。残念ながら物語ではゲバラはマテ茶の愛好家で、コーヒーはほとんど飲まない。だが続編は中米編でコスタリカやグアテマラに行くので、ゲバラにもコーヒーを飲ませようかとも思う。この作品を書くために私はキューバ、ボリビア、アルゼンチン、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコ、コロンビア、エクアドル、ペルー、チリと、ラテンアメリカのスペイン語圏をほぼくまなく旅した。さぞや美味しいコーヒーを飲んだだろう、と思いきやさにあらず。ホテルのコーヒーは不味く、ひどいところはインスタントコーヒーだったりした。

 聞けば、美味しいコーヒーは輸出用に回されて、現地の国民には高嶺の花で飲めないのだという。それは、私が物語の中で糾弾している、現地を収奪する帝国主義の所作である。けれどもそのおかげで、私もこれまでそういったコーヒーを楽しめていたのかと思うと、何だかチェ・ゲバラに非難されているようにも感じてしまう今日この頃なのであった。

PROFILE
海堂 尊(かいどう・たける)
1961年千葉県生まれ。病理医、重粒子医科学センター・Ai情報研究推進室室長を経て、現在は専業作家。2006年『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)でデビュー。最新作は『ポーラースターゲバラ覚醒』(文藝春秋)。
海堂 尊

文・海堂 尊 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2016/12/15

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