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コーヒー・ワンダーランド

エッセイ*赤瀬川原平【コーヒーがゆっくりと近づいてくる。】

 若いころは胃が弱かったので、コーヒーはあまり飲まなかった。
 コーヒーが悪いのかどうか、いろいろな説があるようだが、当時の俗説をして胃にきついとされていたし、自分でもそう思っていた。
 でも喫茶店に行けば、結局はコーヒーを一杯頼み、二杯以上は自分では無理だと決めていた。
 当時、小金井に住んでいたが、絵描き仲間でコーヒーが無類に好きな男がいた。
 小柄な彼はまた、コーヒーがよく似合うのだ。
 ほかにもたとえばぼろぼろの服を着ていても、ぜんぜん汚くは見えず、なぜかカッコいい。不思議な人だった。
 彼には、とあるフランス名の喫茶店に好きなウェイトレスがいて、その女性にずいぶんと入れ込んでいた。
 それで毎日そこにいる時間をのばすために、その店でコーヒーを飲み続けて、きょうは21杯飲んだよ、という日もあった。
 こちらはたまに付き合っても、コーヒーをそんなに続けては飲めないと思い、紅茶にしたりココアにしたりで、どうもさまにならない。
 そうはいっても、やはり若者時代の思い出には、どうしてもコーヒーがしみている。
 ぼくのコーヒーの飲み方は運ばれてきたコーヒーにまず砂糖を少し入れ、スプーンでゆっくりとかき回す。それからスプーンをそっと抜き取り、ミルクをコーヒーカップの淵から、
「スロン」
 と入れる。
 この「スロン」というのは、『ガロ』という昔あったマンガ雑誌のなかで、川崎ゆきおがやっていた表現だ。
「スロン」と入れたミルクは、コーヒーの表面をゆっくりと渦を巻いて、星雲状になる。
 天文に興味を持ちはじめていたぼくは、コーヒーの表面にアンドロメダのような渦巻き星雲ができていく成り行きを、じっと見つめた。
 星雲はコーヒーの表面をするする回って、やがて回転がゆっくりになり、静かに止まる。それは星雲の一生をぐっと短縮して見たようでもあり、感慨に耽りながら、やおら目を離して、手近な週刊誌などに目を移す。
 すると記事面がコーヒーとは逆方向にゆっくりと回っていて、その現象に驚いた。
 これは視覚上の慣性の法則らしい。
 自分はそんなことに神秘を感じたりして、それは若さ故のことなのだろう。
 コーヒーをみんなブラックで飲みはじめたのは、いつごろからだろうか。自分も同調しようとしたが、やはり何も入れないとちょっと苦すぎてつらい。
 砂糖をほんの少しでも入れた方が、コーヒーの苦みがすなおに味わえる。
 そう気がついてからは、ブラックで飲むのはスタイルではなく、味わうためだと自覚して、ブラックには砂糖を少し入れてしまう。
 さて老人になると、好みがいろいろと変化してくるのを感じる。以前は肉の脂身など、とても食べられないと思っていたのが、最近はそうでもなくなってきた。ケーキも美味しいと思えるようになった。海老フライや牡蠣フライも食べられる。
 そしてコーヒーも好きになってきた。
 そのきっかけは、隣駅のデパートに出店している喫茶店だ。
 ある日、家内とウォーキングで街まで出かけ、その店で一息ついて、コーヒーと洋菓子を注文した。ガーっという豆を挽く音がして、コーヒーの香りが一面に漂ってきた。やがて出されたコーヒーは、ほんのりと泡立ち、その下には香りがぎっしりと詰まっている感じがあふれていた。
 一口飲むと、その香りがからだ全体に広がり、
「うまい!」
 このとき初めてコーヒーの美味しさが100%分かった。
 まさか今頃になってこんなかたちでコーヒーを知るとは思わなかった。
 それ以来事あるごとに、家内とはその店でコーヒーを飲む。店のガラス戸の外は、人の来ないデパートの一角で、コーヒー色の悠然とした猫が住んでいる。店の人に、
「ここの猫ですか」
 と聞いてみたがどうも違うらしい。
 近所の猫が遊びに来ているということだった。
 それにしてもこの猫は自分がここの主のような顔をしていて、店内のコーヒーを飲む人たちをジッと見ている。
 この猫のコーヒー色はたまたまではなくて、ここのコーヒーの香りをいつもあびているからかもしれない。

Profile

赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
1937年生まれ。画家、作家。武蔵野美術学校中退。1981年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で第84回芥川賞受賞。カメラコレクターで、ライカ同盟、日本美術応援団などの活動でも知られる。著書に『老人力』など。
福岡伸一

文・赤瀬川原平 / イラスト・唐仁原多里
更新日:2013/06/25



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