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「一杯のコーヒー」が描く、旅立つ男の心象風景。

 あなたは想像できるだろうか。一杯のコーヒーのない、朝食の食卓や仕事部屋の風景を。友人との語らいの場やのんびりとした休日の午後のひと時を。コーヒーを愛する者にとって、もちろん答えは「ノー」だろう。オン/オフにかかわらず、生活のそこかしこに登場する「一杯のコーヒー」はかけがえのないもの。「a cup of coffee」の価値はまさにプライスレスと言っていい。

杯を重ねたコーヒーが、男の逡巡を物語る。

 「一杯のコーヒー」の価値を共有したあとは、その意味を共有してみるのはいかがだろうか。そこで英会話に関するQ&Aをひとつ紹介したいと思う。

Q:飛行機の中などで「コーヒーをください」と言うとき、何と言う?
A:Can I have coffee please?(もしくは、Coffee please.)

 お気付きになっただろうか。たぶん、日本の英語教育を受けた者なら「May I have a cup of coffee?」のように、「a cup of」を使った表現を正解とすると思うのだが、英語のネイティヴスピーカーにとって、それは「マグカップに入ったコーヒー」を連想してしまい、マグで供することのできない機内などのシチュエーションではとても不自然な英語表現になってしまうというわけなのだ。ちなみに、コーヒーの永遠のライバルとも呼べる紅茶の場合、「my cup of tea」と言えば、「私のお気に入り/好物/得意分野」を意味するのだが、コーヒーにはそのような気の利いた言い回しはない。「a cup of coffee」は、無骨なまでに「(マグに入った)一杯のコーヒー」を意味するのみ。なんともコーヒーらしくて良いではないか。

 そんな一杯のコーヒーのイメージを逆手に取り、巧みに歌詞に取り入れたのがロック界随一の吟遊詩人、ボブ・ディランだった。1976年の代表作『欲望』に収録された「コーヒーもう一杯」(原題「One More Cup Of Coffee」)がそれだ。日本でもシングルカットされ、ヒットした曲なので、ロマ音楽の影響を感じさせる、ヴァイオリンの咽び泣くような哀愁の旋律を覚えている人も少なくないだろう。

 毎年のようにノーベル文学賞の有力候補に挙げられるディランらしく、神秘的で美しい女性との別れを歌ったこの曲でも、奥深い比喩表現が使われている。とりわけ素晴らしいのが、大仰な言葉を使うことなく、男の心象風景を鮮やかに描き出したサビの部分だ。

「コーヒーをもう一杯
 僕が旅立つ前に
 コーヒーをもう一杯
 下の谷に向かって出ていく前に」

 女との暮らしを捨て、家を出る男の覚悟が描かれた歌詞であることは一目瞭然だが、聖書の詩篇23篇にある「死の陰の谷」を知る者であれば、「下の谷(the valley below)」が単なる地理上の谷でないことは容易に想像がつくだろう。別れや旅立ちを超え、死をも覚悟する男の並々ならぬ決意が感じられはしないだろうか。

 しかし一方で、「もう一杯(one more cup of)」のコーヒーに、男の逡巡が描かれている点を見逃してはならない。一杯のコーヒーだけでは覚悟がつかなかったという含みを加えることで、女への愛情の深さや旅立つことへの恐怖心、ひいてはこの先待ち受ける事の大きさをも表現しているのだ。同時に逡巡を描くことで、男の繊細な人間味を打ち出し、感情移入しやすい対象として浮き立たせている点も心憎い。

前向きな別れを象徴する、コーヒーの稀有な存在感。

 それにしても、男が旅立つ前に飲むのはなぜコーヒーなのだろう。酒という手もあるのではないだろうか。そんな疑念も、レゲエの神様、ボブ・マーリーの記念すべき初レコーディング曲「One Cup Of Coffee」を併せて聴けば、晴れること間違いない。

「コーヒーを一杯飲んだら、俺は行くよ」と歌いだすこの曲は、ボブがまだ17歳でレゲエの前身〝スカ〟という軽快な音楽を演奏していた頃に録音した曲なのだが、その歌詞は曲調同様、若々しく荒削りだ。ディランのような深さもまだその歌詞にはない。金(養育費)をもって現れた男は、女と子どもに別れを告げる。コーヒーを一杯飲んだら、それを合図のようにして。

 17歳にしてはなんとも生々しい歌詞ではあるが、ボブの生い立ちを知るとがぜん味わいが増す。――英国海軍大尉だった父親は家を留守にすることが多く、ボブが10歳のとき、心臓発作で他界。以後ボブは、スラム街での貧しく厳しい生活を強いられたという。この曲の男に、どうしてもその父親の姿が重なるのだ。ならば男の旅立ちは、前向きなものでなければならない。酒を飲んで旅立つようでは凛とした男の立ち振る舞いが成立しないではないか。一杯のコーヒーこそが、旅立つ男にはふさわしい飲み物なのである。

 ちなみにボブの6番目の息子ローハンは現在、「マーリーコーヒー」というコーヒーブランドを経営している。コーヒーはまさに、マーリー家のファミリービジネス。一杯のコーヒーには溢れんばかりの思い出も詰まっている。

ボブ・ディラン
『欲望』

CD/ソニーレコーズインターナショナル
¥1,785(税込) MHCP-812

初のプラチナ・アルバムに輝いた、1976年発表の17作目のスタジオ盤。冤罪で投獄されたボクサーの曲「ハリケーン」やハンガリー音階を大胆に取り入れた「コーヒーもう一杯」など、絶頂期を象徴する代表曲を多数収録。ディラン最大のベストセラー。

Bob Marley
『Songs of Freedom』

CD/ISLAND
輸入盤

1962年の初録音曲「Judge Not」と「One Cup Of Coffee」を皮切りに、18年間のキャリアで残した78曲をほぼ録音順にCD4枚のボリュームで収録した、1992年リリースの記念碑的ボックスセット。珍しい音源も数多く、レゲエの歴史を知る上でも貴重盤。

文・山澤健治(フリー・エディター&ライター)
更新日:2013/09/9



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