COFFEE BREAK

BOOK

文化-Culture-

2014.12.25

明晰な推理を陰で支える、コーヒーの存在。

Illustration by takayuki ryujin

〝理系作家〟と呼ばれる森博嗣は、小説家としてデビューした当時、ある国立大学工学部の助教授だった。研究の傍ら執筆した『すべてがFになる』は、N大学工学部建築学科助教授の犀川創平と、その教え子西之園萌絵のコンビが事件を解決するミステリで、森の膨大な作品の中ではS&Mシリーズと呼ばれている。2年間でシリーズ全10作を書き上げたという執筆スピードも驚異的だが、売れ方もまた凄まじい。2008年には休筆を宣言し、刊行点数は大幅に減少したが、既刊書の売れ行きは衰えずS&Mシリーズだけでも今秋累計360万部を突破した。

助教授と女子学生の理系コンビが謎を解く!

 しかし今秋ドラマ化されるまでは、誰もが知る作家というほどではなかったかもしれない。彼の書くミステリは、理系の専門知識を使って推理するため、ややとっつきにくいと思わせてしまう面もあったからだ。たしかにこのシリーズの主人公、犀川と萌絵は、優秀な理系頭脳を持つコンビだが、読者に同等の理系頭脳を求めるわけではない。旧帝大N大学の元総長を父に持ち、幼い頃から頭脳明晰、家柄も申し分なくおまけに美貌も備えているという萌絵と、頭脳は明晰だがややもっさりとした犀川の掛け合いは、ボケとツッコミを繰り返すお笑いコンビのようなテンポのよさ。それに加え、ほかの登場人物たちもじつに個性的だ。しかも彼らはコーヒー好き。作中にはコーヒーが、かなり頻繁に登場して場面をつなぐ。

『すべてがFになる』は、シリーズの中でもとりわけ鮮烈な印象を残す作品。舞台となった、真賀田研究所は三河湾に浮かぶ妃真加島にある私立研究所。真賀田四季博士の両親の資産と関係財団の助成で設立され、現在は四季博士と所員約50人がそこで研究開発に携わっている。所員たちは各自研究所内の自室にこもって昼夜を問わず仕事に没頭する。中でも四季博士は、幼稚園児のときにはすでに三乗根の暗算ができ11歳でMITの博士号を取得。天才少女として世界で注目されたという人物で、12歳からプログラマーとして活動している。冒頭に描かれた萌絵との対面シーンでは、思考回路が明快で本質を衝く言葉を次々と投げかけ、才媛の萌絵を圧倒した。

 ウェディングドレスを着た手足のない死体が発見されたのは、研究所内にある、四季博士の部屋だった。コンピューターによって人の出入りも行動もすべて記録されている、ハイテクを駆使した研究所の密室で、なぜ事件は起きたのか。犀川と萌絵は早速、推理を開始するが、研究所内で続いて第2、第3の殺人事件が起き、事態はますます混迷していく。鉄壁のシステムのほころびを探す、犀川と萌絵は度々コーヒーを手にする。入退室もコンピューターが管理し、所員同士もメールのやり取りをするだけでほとんど顔を合わせることもないという、人間らしさを一切排除したかに思える研究所にコーヒーが存在することで、ぐんと親しみがわく。

 犀川は、萌絵にこう語る。
「案外、俗っぽいところがあるんだよ、僕は......。最近自分で気がついて、ほっとしているくらいさ。たとえば、僕は煙草が好きだ。コーヒーも好きだ。とても合理的な生き方をしているとはいえないね」

 すべての時間を研究に費やしたい、人付き合いも雑用もやらずに済ませたい、という願望がある一方で、コーヒーはやめられないというわけだ。

助教授の朝は、コーヒーとともに始まる。

 シリーズ5作目にあたる『封印再度』では2人は、日本画家の香山風采が鍵の入った壺と鍵のかかった箱を遺して密室で謎の死を遂げた50年前の事件を追う。鍵は壺から取り出せず、箱に何が入っているのかはわからない。そして今度は、風采の息子、林水が命を落とす。彼の遺体が発見されたのは自宅近くの河原だったが、足取りがつかめない。壺と箱とは関係があるのか。風采の事件とは無関係なのだろうか。

 犀川は、本作でもコーヒーカップを手に推理する。彼は研究室につくとまずはコンピューターを立ち上げ、コーヒーメーカーをセットする。

 ―――おそらく、この魔法の飲みものが地球上になかったら、犀川の午前中は存在しないのと同じになる。人生の半分はコーヒーから生まれた、といっても過言ではない―――と書かれている通り、彼は日に何度もコーヒーを飲む。ただし犀川は、コーヒーのいれ方に凝るわけでもなければ、コーヒー豆を選ぶ様子もない。しかし「コーヒーには不純物を入れない」とつねづね言っているのを聞くと、彼がいかにコーヒーを愛しているかがわかる。そのシーンを繰り返し読むうち、読者は、非凡な才能を持つ犀川の日常が自分たちの延長線上にあるような気がしてくる。ここで描かれたなんの変哲もないコーヒーは、誰もが持つコーヒーの記憶へとつながる。コーヒーは、作品を成り立たせるうえで欠かせないアイテム。読んでいるとコーヒーが飲みたくなることはいうまでもない。

森博嗣『封印再度』
講談社文庫 ¥864(税込)

謎の死を遂げた、日本画家、香山風采が遺した2つの家宝。木箱「無我の匣」は鍵がかかっていて開かない。鍵は「天地の瓢」と呼ばれる壺の中にあるようだ。50年後、香山家で次の事件が起きる。家宝の木箱の中に凶器が隠されているのか? 創平と萌絵の恋の行方にも注目だ。


森博嗣『すべてがFになる』
講談社文庫 ¥792(税込)

N大助教授の犀川創平と学生の西之園萌絵は、孤島にあるハイテク研究所で殺人事件に遭遇する。遺体が見つかった、天才プログラマー真賀田四季の部屋はセキュリティ態勢も万全だった。とぼけた魅力の犀川と才媛の萌絵がコンピューターサイエンスの限界に挑むデビュー作。


文・今泉愛子(ライター)
更新日:2014/12/25

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