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コーヒー・ワンダーランド

コーヒーの香りを追うマドリードの旅。

支倉常長はその時、
コーヒーを飲んだのか?

ローマで描かれた支倉常長の肖像画。この艶やかな陣羽織姿で国王にもローマ法王にも会っている。

マヨール広場のフェリペ3世像。支倉の君主・伊達政宗の狙いはエスパーニャとの通商と航路・航海技術の獲得だったと言われる。

17世紀前半、世界で最も富める国だったエスパーニャ(スペイン)。その首都マドリードで 、400年前のコーヒーと日本人の接点を探して歩く。

 世に「初めて○○した日本人は誰某」という類の話は多々ある。ライト兄弟やリリエンタールよりも遥か前に飛行機で滑空したのは備前の表具師、浮田〝鳥人〟幸吉。ワインを初めて飲んだのは織田信長だったというのが広く信じられているところだ。では、コーヒーを最初に飲んだ日本人は誰か?

 それは江戸時代初期に慶長遣欧使節団を率いて、エスパーニャ(スペイン)、ローマへと旅した仙台藩の武将、支倉常長(はせくらつねなが)だったという説がある。

 ベネチアの商人によってコーヒーがアラブ世界からヨーロッパに伝えられたのは1615年頃のこととされている。ここで言う「頃」というのが微妙なのだ。というのも、支倉一行が現在︎のメキシコを経て大西洋を渡り、スペイン・アンダルシアの港町に着いたのが慶長19年(1614年)9月のこと。以来、セビリア、マドリード、バルセロナ、ジェノバ、ローマを含む多くの町に立ち寄り、足掛け2年半、ヨーロッパに滞在した。その時期はコーヒーのヨーロッパ流入から拡散にかけての日々と確かに符合しているのだが……。

左から:カフェ・コメルシアルは1887年創業、現存するマドリード最古のカフェ。/同店のカウンター。/支倉がフェリペ3世に謁見を果たした王宮。支倉が訪ねた時代のものは1734年に焼失。その後再建された。

侍がコーヒーを飲んだのは、世界最強国家の首都?

 新奇な食物や習慣が真っ先に伝えられ人々の間に広まるとしたら、それは大都市でのことであったに違いない。支倉一行の行程の中で言えば、候補地になるのは世界最強国家だったエスパーニャの首都マドリードか、ヴァチカンを戴くキリスト教世界の中心ローマのどちらかということになるが、やはり物や人の往来ということではマドリードが筆頭候補地になるだろう。古のコーヒーの香りを追ってマドリードの町を歩いてみよう。

侍たちとコーヒーは、
時をほぼ同じくして欧州へ。

コーヒー伝播の波と、遣欧使節の足取り。

左から:サン・フランシスコ・エル・グランデ教会のドーム。支倉一行のマドリード滞在中の宿になったのはこの教会に付属する僧院だった。/サン・フランシスコ・エル・グランデ教会は宮廷画家になる前のゴヤの絵があることでも知られるマドリード随一の教会。

 現在残されている慶長遣欧使節の記録としては、日本から副使として同行した宣教師ルイス・ソテロが語るところを、ローマの歴史学者で途中から支倉たちの旅にも同行したシピオーネ・アマティが記した『伊達政宗遣使録』がある。
 じつは支倉常長は道中、19冊にも上る旅の記録をしたため、持ち帰っていたのだが、死後没収され、行方不明になっている。そこに黒くて、独特の芳香と苦みのある飲み物のことが記されていたかもしれないのだが……。

左から:十字架に祈りを捧げる支倉常長(仙台市博物館蔵)。/支倉が洗礼を受けた王立跣足女子修道院。支倉の洗礼名はフェリペ3世の名も入った「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ」だった。/サン・フランシスコ・エル・グランデ教会の外観。

 ヨーロッパで最初のコーヒーハウスの出現は1645年であるから、支倉の滞在には間に合っていない。伝播初期のコーヒーは、極めて特別な地位にいた人(例えば、国王とか法王)が個人的に嗜むか、市場の屋台のようなもので売られていたのだろう(何かと待機時間のあった支倉一行が街場を歩き回ったのは間違いない)。21世紀のマドリードに支倉が飲んだかもしれないコーヒーのよすがを探すのは極めて困難なことだが、それでも、もしかしたら真実の欠片くらいには出合えるかもしれない。支倉の足跡が確かなのは、国王フェリペ3世に謁見した王宮や洗礼を受けた教会である。マドリードで最も古いカフェを訪ねてカフェ・ソロ(エスプレッソ)を飲めば、何かヒントが出てくるだろうか?

左から:カフェ・コメルシアルの人気メニュー、アイリッシュ・コーヒー。/同店は去年一旦閉店となったが、新たな買い手が名乗り出て、今年末に再開店する運びとなった。/マドリードで2番目に古いグラン・カフェ・デ・ヒホンは1888年創業。/勤続38年のカマレロ(ウェイター)、マリアーノ・ブランコさん。

400年前、支倉はどんな気持ちで
この風景を眺めたことだろう?

支倉が残した、〝ハポン〟という姓。

王宮からカンポ・デル・モロ庭園を眺望する。フェリペ3世に会う時、支倉は衛兵が整列する中、馬車で王宮に入ったという。

 遠藤周作の小説『侍』は、支倉常長の苦難の旅と心の揺らぎを通して神の存在や信仰の意味を問うた傑作である。伊達政宗の親書を携えてスペイン国王やローマ法王に謁見した歴史上の人物という以上の、体温と肉声を持った支倉に触れることができる。

 小説の中の支倉は寡黙で忍耐強く、実直だ。藩主の命令を命懸けで成就し戻ったヒーローだったはずが、渡航中に日本国内で進んだキリスト教禁制の動きに伴って、逆に貶められてしまう支倉の不遇の後半生は、深煎りであることが多いスペインのコーヒーの何倍も苦い……。

左から:セントロ地区のバル、メソン・エル・ラコン。コーヒーはともかく、支倉たちがこの町でワインを飲んだことは間違いない。/蚤の市には古いコーヒーカップも。/グラン・ビア通り。

 マヨール広場の近くのカフェでコーヒーを飲んでいて、ふと、10年くらい前に出くわしたエピソードを思い出した。ムルシア地方のどこかの町のレストランでランチを食べていた時のことだ。食後のコーヒーという頃合いで、隣のテーブルのスペイン人男性が声を掛けてきて、「私の名前はハポン(日本)だ」と言った。当時はそれがどういうことを意味するのかわからなかったが、後に支倉一行の一部がそのままスペインに居着き、現地の女性との間に子孫を残し、彼らがハポンという姓を名乗ったことを知ったのだった(現在スペインには有名サッカー選手や元ミス・スペインを含む800人以上の〝ハポンさん〟の末裔がいる)。400年の時を超えて、支倉常長と現代スペインを結ぶラインがコーヒーカップの中にぼんやりと浮かび上がった。︎

ラ・プラナ通りのトマ・カフェ。支倉一行とは無縁に見えるが、こんなモダンな店のコーヒーも「最初の一杯」につながっているのだ。

 支倉が戻った頃、日本は鎖国に向けていよいよ国外の人や物との接点を限るようになっていた。もし初めてコーヒーを飲んだ日本人が支倉常長でなかったなら、われわれはこの「初めて物語」の主人公の登場を、さらに100年ほども待たねばならぬことになる。

左から:百貨店エル・コルテ・イングレス最上階のグルメ・エキスペリエンス。マドリードの町を眺めながらコーヒーが楽しめる。/トマ・カフェのカプチーノ。カプチーノの名前の由来はカトリックの一派カプチン会の僧の着る修道衣との説がある。/同店のサービスカウンター。

文・写真 浮田泰幸/コーディネート CROSSMEDIA WORKS, S.L.(中村美和)
更新日:2016/12/15



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